東條英教
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東条英教

東條英教

東條 英教

生誕1855年12月16日
陸奥国盛岡藩
死没 (1913-12-26) 1913年12月26日(58歳没)
日本 神奈川県足柄下郡小田原町
所属組織 大日本帝国陸軍
最終階級陸軍中将
配偶者東條千歳
子女東條英機
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東條 英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日1855年12月16日) - 大正2年(1913年12月26日)は、日本陸軍軍人陸大1期首席。最終階級は陸軍中将

第40代内閣総理大臣東條英機は息子。
経歴

1855年12月16日(安政2年11月8日)に陸奥国盛岡藩士・東條英俊の嫡男として武蔵国豊多摩郡大久保村に誕生する。

1873年(明治6年)4月、陸軍教導団歩兵科[1]。1877年(明治10年)、西南戦争に出征し、同年4月に陸軍歩兵少尉試補[1]。1878年(明治11年)9月、陸軍歩兵少尉に任官[1]。1885年(明治18年)12月、陸軍大学校(陸大)を首席で卒業し(1期、卒業生は10人)、恩賜の望遠鏡を拝受[2][注釈 1]

1886年(明治19年)5月、陸大教官[1]。1888年(明治21年)3月から1891年(明治24年)12月までドイツへ留学[1]井口省吾山口圭蔵と同時のドイツ留学であった。

1891年(明治24年)9月16日、 任 陸軍歩兵少佐、補 陸軍大学校兵学教官[3]。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)3月まで、現役の陸軍歩兵少佐のまま、日本体育会体操練習所(現・日本体育大学)長を務めた[4]。佐官時代には、参謀本部第1局局員、陸大教官、参謀本部第4部長(戦史編纂)などを歴任[1]

1901年(明治34年)5月、陸軍少将に進級すると同時に歩兵第8旅団長[1]。1904年(明治37年)5月、日露戦争に出征[1]。同年9月6日、内地に後送される[1]。1905年(明治38年)1月、留守近衛歩兵第2旅団長[1]。1906年(明治39年)1月、歩兵第30旅団長[1]。1907年(明治40年)11月7日[5]、中将に名誉進級後[5]、予備役に編入[1]

心臓病を患い、1911年(明治44年)11月より神奈川県小田原町荒久海岸の別荘で療養していたが、1913年(大正2年)12月15日に容体が急変し、同月16日に死去した[6]と新聞で報じられる。ただしこれは誤報であり、実際には12月26日に死去[7]している。
人物

東條家は、能楽師として盛岡藩南部氏)に仕えた家系で、禄高は160石であった[1]

英教は陸大1期を首席卒業したが、中将止まりであった。その理由として盛岡藩が戊辰戦争明治政府と戦ったためや、当時は薩長派閥が幅を利かせていたためなどが言われている。

また一説にはドイツ留学時に、来訪した山縣有朋に藩閥の弊害を抗議し、山縣の怒りを買った事が原因とされる。これは英教が参謀本部第4部長時代に書いた、大本営幕僚として日清戦争に参加した経験に基づいて作成した『隔壁聴談』[8]が、後に山縣有朋らから睨まれる原因をなしたものであるという。この指摘によれば「英教が執筆せる日清戦史の忌憚なき記述は山県有朋の忌むところとなり、大才を伸ぶるを得ず。」[9]や、「英教は日清戦史についても独自の論を展開したが、その大胆な筆致は薩長閥の総帥だった山県有朋を刺激した」[10]という。

なお中将で予備役となった直接の理由であるが、近年の研究では、日露戦争の時に犯した作戦ミスが原因の一つとされている[11]。陸大1期の同期生で旅団長として出征したのは、英教の他に秋山好古山口圭蔵がいたが、山口は免職となり英教は左遷となった。1904年6月に蓋平攻撃と連動して起きた分嶺水の戦闘で消極策を取り独断専行気味に兵を引いたという際、師団司令部と対立したといわれている。ついで7月の柝木城の戦闘において歩兵第三旅団長の英教は攻撃の要であったにも関わらず、師団長川村景明に夜襲を命じられたとき、状況を判断して夜襲を行わなかったが、その原因は偵察不足であった。そのためにロシア軍が無傷で撤収し、別の師団が敵軍を包囲する事態となり川村の面子が潰された[注釈 2]からであるという」[12]。この失敗により英教は兵学書に通じてはいたが実戦向きではなく作戦失敗を招き「実兵指揮能力不足」という評価が下され、歩兵第8旅団長を解任されて留守近衛歩兵第2旅団長に左遷された(名目上は病気)。

そのため英教は陸軍でのキャリアが、「出世が遅れ」[注釈 3]、「大将になれなかったのは長州閥に睨まれたことが原因」と恨んでいた[注釈 4]。一方で、秦郁彦は、英教が日露戦争で戦意不足として旅団長を解任されたことを踏まえ、「ですから、よく名誉中将までなれたものです」と評している[13]

予備役編入後は、専ら戦術の研究に打ちこみ著述業に従事した。英教は自身の挫折した夢を息子の英機に託した。英機を一流の軍人として育て常日頃から軍人の心構えを説いて聞かせた。大正元年(1912年)12月、英機は見事父の期待に応え、3回目の挑戦で陸軍大学校に合格した。
備考

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では、英教は主人公の一人の秋山好古の同期生であるが、陸軍大学校同期入学の名前のみの紹介となっている。

NHK総合テレビのテレビドラマ『山田風太郎 からくり事件帖-警視庁草紙より-』に、帝国軍人として登場しているが、フィクションである。

家族

妻は東條千歳福岡県北九州市小倉北区田町(現)の万徳寺(浄土真宗本願寺派住職・コ永靈鳳の娘)。息子として1880年に生まれた長男英夫、1882年に生まれた次男英実は夭折、実質的に三男の英機が長男として育てられる。他に3人の息子、娘がいた[14]が、英機の弟のうち、寿は川崎航空機で航空技術者として活躍し、戦後に英機から遺言書を渡されるなど交流があった。

孫に東條英隆、東條輝雄東條敏夫、東條光枝、東條満喜枝、東條幸枝、東條君枝、曾孫に東條由布子がいる。
栄典・授章・授賞
位階


1885年(明治18年)3月5日 - 正七位[15]


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