とうじょう たけし
東條 猛
本名竹内 節 (たけうち たかし)
生年月日 (1896-11-09) 1896年11月9日
没年月日不詳年
出生地 日本 兵庫県印南郡志方村(現在の同県加古川市志方町)
職業俳優
ジャンル新派、劇映画(現代劇・時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー)
活動期間1910年 - 1941年
主な作品
『雷電
東條 猛(とうじょう たけし、1896年11月9日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6]。新漢字表記東条 猛[1][3][4][5]、本名竹内 節(たけうち たかし)[1]。新派出身であったが、時代劇にも現代劇にも出演、マキノ・プロダクション、大都映画の作品の脇を固めた助演俳優として知られる[1]。 1896年(明治29年)11月9日、兵庫県印南郡志方村(現在の同県加古川市志方町)に生まれる[1][2][3]。 旧制小学校卒業後の満13歳のころ、1910年(明治43年)、壮士芝居
人物・来歴
1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、東條は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、新見映郎、都賀清司、大谷鬼若らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[7]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)6月、同社解散により退社した[1]。記録に残る同社での最後の出演作は、1931年(昭和6年)4月17日に公開された『三日月次郎吉』(監督吉野二郎)であった[4][5]。同社解散後、多くが新興キネマに移籍したように、東條は、1932年(昭和7年)、新興キネマと配給提携を行う製作会社・尾上菊太郎プロダクションに移籍、2作に出演して、新派実演の世界に戻った[1][4][5]。
1935年(昭和10年)2月、東京の大都映画に入社、映画界に復帰する[1][4][5]。当時、すでに多くの映画会社はトーキーに切り替えていたが、同社は依然サイレント映画を製作しており、東條が初めてトーキーに出演したのは、1939年(昭和14年)1月10日に公開された『神変唐獅子』(監督石山稔)であった[4][5]。1942年(昭和17年)1月10日、戦時統制により、同社は新興キネマ、日活の製作部門と合併して大映を形成するが、このときを機に、東條は満47歳で映画界から姿を消した[1][4][5]。記録に残る同社での最後の出演作は、1941年(昭和16年)10月9日に公開されたトーキー『黒潮鬼 前後篇』(監督後藤昌信)であった[4][5][6]。時代は第二次世界大戦に突入、戦後の消息については伝えられていない[1]。没年不詳。 クレジットはすべて「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][8]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。 前半はすべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[1][2][9]。
フィルモグラフィ
日活大将軍撮影所
『鳴門秘帖 第一篇
『鳴門秘帖 第二篇
『鳴門秘帖 第三篇』 : 監督辻吉郎、製作日活太秦撮影所、1927年2月9日公開
『鳴門秘帖 第四・五篇』 : 監督辻吉郎、製作日活太秦撮影所、1927年5月22日公開
『鳴門秘帖 第六篇』 : 監督辻吉郎、製作日活太秦撮影所、1927年7月31日公開
『鳴門秘帖 最終篇』 : 監督辻吉郎、製作日活太秦撮影所、1927年9月15日公開
マキノプロダクション御室撮影所