東本願寺
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この項目では、京都市下京区にある寺について説明しています。その他の用法については「東本願寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

東本願寺

所在地京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度59分27.66秒 東経135度45分30.44秒 / 北緯34.9910167度 東経135.7584556度 / 34.9910167; 135.7584556座標: 北緯34度59分27.66秒 東経135度45分30.44秒 / 北緯34.9910167度 東経135.7584556度 / 34.9910167; 135.7584556
山号なし
宗旨浄土真宗
宗派真宗大谷派
寺格本山
本尊阿弥陀如来
創建年大谷本願寺 - 元亨元年(1321年
東本願寺 - 慶長7年(1602年
開基大谷本願寺 - 覚如(本願寺第3世)
東本願寺 - 教如(本願寺第12世)
中興年文明3年(1471年)頃
中興蓮如(本願寺第8世)(吉崎御坊山科本願寺
正式名真宗本廟
1987年昭和62年)までは本願寺)
別称お東、お東さん
文化財『教行信証』(坂東本)全6冊(国宝
御影堂、阿弥陀堂、絹本著色親鸞聖人像(安城御影)ほか(重要文化財
公式サイト ⇒真宗大谷派(東本願寺)
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東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都府京都市下京区常葉町にある真宗大谷派本山寺院[1]本尊阿弥陀如来。正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)[2][3]であり、山号はない。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。愛称は「お東」「お東さん」。2020年令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)
歴史親鸞の遷化から本願寺東西分立までの歴史の詳細については「本願寺の歴史」を参照

天正19年(1591年)、浄土真宗本願寺派法主本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。

慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。この時、江戸幕府内では本願寺派法主の准如が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を本願寺派法主にしようとの考えもあったが、浄土真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった、ということになっている。しかし、教如は以前から石山合戦以来の自らの派(後の大谷派)を有しており、宗派内部はすでに完全に分裂状態にあった。

分立当初は准如の堀川六条の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の烏丸七条の「本願寺」は「信淨院(教如の院号)本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門(「信淨院の門跡」の意)」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。

寛永18年(1641年)、3代将軍徳川家光から1万坪の土地が寄進された。寄進された土地は東本願寺から少し東に行ったところであり、以後、飛び地境内となった。その後、承応2年(1653年)に石川丈山によって庭園が造られ、渉成園と名付けられた。

万治元年(1658年)、3年後(寛文元年(1661年))に親鸞聖人四百回御遠忌があるため、それに合わせて老朽化していた阿弥陀堂・御影堂(以下、両堂)を再建する。

寛文10年(1670年)、親鸞聖人を祀る大谷祖廟が造立される。延享2年(1745年)には8代将軍徳川吉宗が、大谷祖廟に隣接している長楽寺の境内地1万坪を没収し、そのまま大谷祖廟に寄進している。

天明8年(1788年)1月の天明の大火によって両堂が焼失するが、寛政10年(1798年)に幕府による用材の寄進もあって両堂は再建された。

文政6年(1823年)11月15日、境内からの失火で両堂が焼失する。天保6年(1835年)、両堂が再建される。

安政5年(1858年)北の町屋からの火で両堂が焼失する。しかし、3年後(文久元年(1861年))に親鸞聖人六百回御遠忌が控えていたために、万延元年(1860年)には早くも両堂は仮堂ながらも再建された。しかし、仮堂とはいえその平面規模は焼失以前の両堂と同規模であった。

元治元年(1864年)7月の禁門の変に伴うどんどん焼けで両堂は焼失する。

東本願寺は、江戸時代に上記にある通り4度の火災に遭っており、その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄された。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。

現在の阿弥陀堂と御影堂は1880年明治13年)に起工され、1895年(明治28年)にようやく落成した建物である。建築・障壁画等の製作には当時の第一級の職人が参加している。

大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』(以降、『宗憲』)には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂(ごえいどう)及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派[4]の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定[5]される。しかし、お東騒動と呼ばれる内紛が起こり、その結果、1987年昭和62年)に「単位宗教法人(被包括宗教法人) 本願寺(通称:東本願寺)」は、「包括宗教法人 真宗大谷派」によって解散させられ、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収されてその直属の宗教施設となり、通称:東本願寺は正式名称を「本願寺」から「真宗本廟」に改称した[6]

よって現在、真宗本廟は真宗大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による「寺院」ではない(宗教法人法による宗教法人の分類については、宗教法人#単位宗教法人と包括宗教法人を参照。)。

これ以降厳密には本願寺と呼ばれる寺院は、下京においては浄土真宗本願寺派本山の本願寺(通称:西本願寺)のみとなっているのだが、現在でも真宗本廟の通称として「東本願寺」の名称が引き続いて使用されている。
境内

阿弥陀堂(
重要文化財) - 本堂。禅宗様を取り入れた仏堂で、本尊・阿弥陀如来立像を安置する[7]。屋根は瓦葺きの単層入母屋造。建築規模は、間口52m・奥行き47m・高さ29mである。床面積比[8]で御影堂の半分以下しかないが、全国屈指の規模の仏堂である。


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