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出典検索?: "東映まんがまつり"
「テレビ朝日系列の水曜スペシャルで過去に生放送された「春休み・夏休みマンガ祭り」」とは異なります。
東映まんがまつり(とうえいまんがまつり)は、東映による1967年から始まった子供向け映画興行のタイトル[1][2][3]。子供向け映画を数本まとめて春休み、夏休み[4]、(時折冬休み)の時期にあわせて劇場公開された[1][4]。 スタート当初は名称が定着せず、マスメディアは「子ども週間」[5]、「マンガ週間」[6]などと呼んでいた。 動画部門(東映アニメーション)を自社内に持つ東映ならではのお子さまサービスとして[7]、国産劇映画の不振を横目に、観客動員数は年々、上昇の一途をたどり[7][8]、競合企業である東宝がゴジラ映画をメインに据えた「東宝チャンピオンまつり」を展開する等[9]、他社に真似られるに至った[7][8][10][11]。 劇場予告編やテレビCM等での「東映ー まんがまつりー」という子供のかけ声で強い印象を残した。 西沢正史は「テレビ・シリーズの一部を抜き出して上映するといった詐欺的商法で著しく信用を失墜させた」と評している[12]。 1963年(昭和38年)12月に「わんわん忠臣蔵」の併映(東京地区のみ)として、テレビアニメ『狼少年ケン』を上映、さらに1964年(昭和39年)3月から6月にかけて、再映版長編アニメや一般映画の併映として『狼少年ケン』を上映したところ、いずれも好評だったことから、1964年(昭和39年)7月に「お子様週間・マンガ大行進」[4]として子供向けテレビアニメを数本まとめて上映[4][9][13][14]。上映期間中、全国11直営劇場のロビーに、宣伝部と各メーカーのタイアップによる、おもちゃ、絵本、日用品(原文ママ)などのマンガのキャラクターグッズ33品目を販売、子供たちの人気を集めた[4]。『週刊映画プレス』1964年3月28日に「今週随一の動員を示しているのは春休みを控え、入試等も一段落ついたこの時とばかり出したお子様(御家族?)番組の成功である」「小学校が休みだから悪かろうと思わなかったが漫画の猿と狼にかき回されるとは人間さま出演の映画のなさけなきことよと言いたくなる。このダークホース番組は大川社長の立案だそうだが、骨のあるモノノフは危険也というので反対した。『これは社長絶対来ますよ』と言うとイエス・マンに思われたかもしれない。だが結果はジャリが財布もちの家族をつれ込み、売店にもかせがすということになった。莫大な製作費の巨匠作品でこの二本立ての安いものにかなわないものがあるに至っては、企画は製作にも番組編成にも通じる」と書かれている[15]。途中の「骨のあるモノノフは … 」の意味は分からないが、いずれにしろ、他社の作品に比べて、東映の二本立ては再映とテレビ映画の組み合わせで、再映は当然製作費は0円で、一本分の相当安い製作費+宣伝費で他社作品に勝ち、当時の映画関係者に驚かれたものと見られる。東映は原価のかからない再映作品に、多少の経費でできるテレビアニメのブローアップ(画面の引き伸ばし)上映が、多額の経費が掛かる一般映画よりも興行収入が上がり、関連商品の売り上げも大きいことで、テレビアニメに映画興行の新たな商機を見出し、春、夏、冬の学校の長期間の休みには子供向けのまんが映画「東映まんがまつり」を製作、上映することを決めたといわれる[13][14]。3回目の1965年(昭和40年)夏の上映時に「この社の名物の子ども週間」と書かれていることから、最初から好評を博したものと考えられる[5]。 その後、1967年(昭和42年)3月興行で「東映こどもまつり」の名称を使用した[16]。この興行は『少年ジャックと魔法使い』『サイボーグ009 怪獣戦争』と初めて長編色彩漫画(原文ママ) 二本立てにカラーマンガを配した番組構成だったが[6]、春休みの子どもファンの人気を独占し各地で大ヒットした[6]。それまでのマンガ週間は興行価値が低かったが、この回は小学校前の幼児の来館が圧倒的に多くその付き添いとして親(大人)が大量に来館し、大きな儲けを生んだ[6]。続く1967年7月興行で初めて「東映まんがまつり」の名を初使用[16]。その後、「東映こどもまつり」[16]→「東映まんがパレード」[16][17]→「東映ちびっ子まつり」[16]と東映自身が名称変更し[16][17]、1969年(昭和44年)3月以降は再び「東映まんがまつり」に統一された[1][18][16]。
概要
歴史
東映まんがまつり(1963 - 1989年)