東明王
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この項目では、夫余の東明王について説明しています。高句麗の東明聖王については「東明聖王」をご覧ください。

東明王
夫余王

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東明王
各種表記
ハングル:???
漢字:東明王
日本語読み:とうめいおう
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東明王(とうめいおう、朝鮮語: ???)は、夫余の建国者である。高句麗の建国者である朱蒙東明聖王)と同一人物であるか否かについては議論がある(後述)。
目次

1 東明王説話

2 東明王と朱蒙(東明聖王)

3 脚注

3.1 註釈


4 参考文献

東明王説話

三国志』巻三〇・魏書三〇・烏丸鮮卑東夷・夫餘所引『魏略』には以下の記述がある。昔北方有?離之國者,其王者侍婢有身,王欲殺之,婢云:「有氣如?子來下,我故有身。」後生子,王捐之於溷中,豬以喙嘘之,徙至馬閑,馬以氣嘘之,不死。王疑以爲天子也,乃令其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至施掩水,以弓?水,魚?浮爲橋,東明得度,魚?乃解散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。

〈昔、北夷の?離之国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごもりました」と言い、王は騙された。その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。〉

中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國志/卷30#東夷

東明王と朱蒙(東明聖王)

夫余と高句麗が民族的に本支関係にあり、同一民族であるという主張の根拠として、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙(東明聖王)説話が同じ(類似・一致)であるという指摘がなされ[1]、このことから夫余と高句麗が同一民族であると強調される[2]

夫余の東明王と高句麗の朱蒙の関係について最も早く指摘したのは那珂通世である[3]。那珂通世は『広開土王碑』の鄒牟(東明聖王)、『魏書』の朱蒙(東明聖王)、それと『論衡』に出てくる夫余の東明王は同一人であり、同音転訛からくる異訳であり、本来東明は高句麗の始祖であったが、『論衡』が間違って東明を夫余の始祖としたとした[4]。根拠として、『論衡』では「北夷?離国」の王から夫余の東明が出生したとなっているが、『魏略』には「?離国」(たくりこく)を「?離国」(こうりこく)とあることから、「?」(たく)は「高句」の誤字であり、正しくは『論衡』の東明王は北夷高句麗から夫余が出たことを、夫余から高句麗が出たと『論衡』筆者が本末転倒した、つまり東明王は高句麗の建国者であり、夫余に同様の説話が存在するのは中国の誤伝と斥けた[5][6]李成市によると、那珂通世の学説はその後の研究に多大な影響を及ぼし、基本的に北朝鮮韓国の学界は那珂通世の学説を支持している[7]。この那珂通世の学説に対して、内藤湖南は、『翰苑』注所引『後漢書』に「北?離国」とあることから「?離」(こうり)ではなく、「?離」(たくり)が正しいと批判した[8][9]

内藤湖南は、夫余の東明王と高句麗の朱蒙のモチーフである太陽などの霊気を感じて子が生まれる始祖説話は、東北アジア諸民族共通のものであり、それがただ変化しただけであり、これらの説話を共有する諸民族は、同一民族か否かは不明であるが、同一説話をもった民族であるとするにとどめ[10]、?離国を松花江支流に居住したダウール族のことであり[註釈 1]、『論衡』の東明王説話はそのまま夫余の建国説話と認めてよいとしている[11][12]

白鳥庫吉は、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙(東明聖王)説話は、始祖名と形式と内容が同一、異なっているのは活動舞台であり、夫余の東明王説話は歴史的・地理的に不都合はないが、高句麗の朱蒙説話は、時間的・地理的に成り立ち難いため、「高句麗は夫余と均しく?貊種であるが、夫余とは同族でない」として[13]、高句麗の東明聖王説話は、夫余の東明王説話を改作したものであり、その目的として、長寿王時代に高句麗が夫余に包囲された際に、夫余の始祖を高句麗の始祖であるとすることにより、夫余族に安堵を与えるためと主張している[14][15]

那珂通世、内藤湖南、白鳥庫吉の各説は異なるが、夫余の東明王と高句麗の朱蒙は同一人物乃至は同一内容の異表記ということは共通している[16]。対して池内宏は、夫余の始祖は東明王であり、朱蒙が高句麗の始祖であることを立証し、夫余の東明王と高句麗の朱蒙を峻別しなければならないと主張し、白鳥庫吉が時間的・地理的に成り立ち難いとした高句麗の朱蒙説話は、内容的に歴史的事実を反映しており、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙説話のそれなりの一致は、夫余と高句麗の民族的本支関係に基づき[17]、夫余の東明王と高句麗の朱蒙は別人であると主張し、高句麗時代には夫余の東明王と高句麗の朱蒙は混同されておらず[18]百済新羅・高句麗の三国統一後の『旧三国史』編者の過誤から夫余の東明王と高句麗の朱蒙が同一人とされたことを明らかにした[19][20]。かかる事実から李成市は「一方の説話を誤伝であるとしてその説話の存在を否定することは出来なく」なり、「夫余と高句麗は各々始祖を異にし、かつほぼ同様の建国説話があったとみなけばならないことが確認される」と述べている[21]。ただし池内宏は、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙説話が一致していることをもってそのまま夫余と高句麗の民族的本支関係を認めることは学術的でなく、民族が移動せず、ある民族で発生した説話が、他のある民族に伝播することは多々あり、夫余と高句麗の民族的本支関係を夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙説話の一致のみによって考えるべきではないと戒めており[22]、結果として池内宏は『魏志』の「東夷の旧語」史料を根拠にして、夫余と高句麗の民族的本支関係を認めるが、李成市は「『魏志』の当該史料が極めて疑わしい伝聞・推量の域を出ない事柄である」と述べている[23]

夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙説話の形式や内容が同じであるという主張に対して最重要部分が全く異なることを指摘したのは三品彰英であり、三品彰英は朝鮮・満州始祖説話(神話)の基本構成を、卵生型・箱舟漂流型・感精型・獣祖型の4形式に類別し、『広開土王碑』の鄒牟(東明聖王)説話は、史料上朝鮮最古の卵生型であり、卵生の前件として天帝の子と中国河伯の娘の柳花夫人が結婚するなど人態化が進化し、かなり発展した説話であり、感精型である夫余の東明王説話と卵生型である高句麗の朱蒙説話は異なり[24]、卵生構成の建国説話を持つ高句麗・新羅・加羅は、卵生構成が最繁栄している台湾などの南方諸族に繋がっていることを示しており、高句麗の朱蒙説話は、南方諸族境域に所属し、漢族とも接する?貊族の黄海沿岸原住地から伴ったものと指摘している(ただし三品彰英は、高句麗の朱蒙説話が北方の日光感精構成を複合していることは認めている)[25][26]

広開土王碑』(414年建立)には、高句麗の出自は北夫余に有りと明記され、435年に平壌を訪問した李敖も「高句麗者出於夫余」としており、5世紀初頭に高句麗人の夫余自称が史料に登場し、夫余と高句麗の民族的本支関係が明確化さるが、白鳥庫吉は、高句麗人の夫余自称の事実性を疑問視しており、東夫余・北夫余が広開土王の臣民となり、高句麗の南にある百済を含め、高句麗が夫余族に包囲され、夫余族を懐柔するため、長寿王は夫余の東明王説話を利用し、自らが夫余族の本家本元であることを自称し、東夫余・北夫余に対しては安堵させ、百済に対しては百済征討の正統性を得ることを画策して、夫余出自を自称したと主張した[27][28]。李成市は、これらの高句麗がおかれた国際状況を処理するため、政治戦略として夫余出自が果たした事例として『広開土王碑』の以下を挙げる[29]。廿年庚戌,東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢,王躬率往討, ? 『広開土王碑』

中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。國岡上廣開土境平安好太王碑

この記事は『広開土王碑』冒頭の以下と呼応している[30]。惟昔始祖,鄒牟王之創基也。出自北夫餘,天帝之子。母河伯女郎。 ? 『広開土王碑』

このように高句麗の東夫余征討の正統性として、北夫余出自を自称する鄒牟王が持ち出され、王の親征行為を正統化する根拠となり、現実政治で夫余出自が重要な意味を果たしている[31]


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