この項目では、マルコ・ポーロの旅行記について説明しています。その他の「東方見聞録」については「東方見聞録 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
Delle meravigliose cose del mondo, 1496
『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容の口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。 原題は不明である。日本および韓国においては一般的に『東方見聞録』(韓:?????/東方見聞?)という名で知られているが、他国では『世界の記述』( “La Description du Monde”、“Le Devisement du monde” )、『驚異の書』( Livre des Merveilles ) とも呼ばれる[注釈 1]。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』( “Il Milione”、100万)というタイトルが有名である。諸説あるが、マルコ・ポーロが帰国後百万長者になった、あるいはアジアで見たものの数をしばしば「100万」と表現したことでついたあだ名から[1][2]とも、100万の嘘が書かれているから[3]とも、マルコ・ポーロの姓 “Emilione” に由来する[4]ともいう。英語圏やスペイン語圏、中国語圏などでは『マルコ・ポーロ旅行記』( “The Travels of Marco Polo”、“Los viajes de Marco Polo”、“馬可・波羅游記” )の名でも知られる。 日本語の『東方見聞録』という訳題は、明治期の中学東洋史教科書の記載に始まるもので、書名としては、1914年(大正3年)に刊行されたアカギ叢書版(佐野保太郎編)[5] で初めて用いられている。これ以前の1912年(明治45年)に刊行された博文館版(瓜生寅訳)では、『まるこぽろ紀行』[6] という題名が用いられていた[7]。 1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発した。ペルシャからパミール高原、ゴビ砂漠を越え、1275年に上都でフビライ・ハンに拝謁。ハンに重用され、元の各地に使節として派遣されるなど見聞を深めることとなる。そして1292年に船で泉州を発ち、セイロン、アラビア海をへて、1295年に3人でヴェネツィアに戻るという、実に四半世紀にわたる大旅行となった[8]。
タイトル
旅行の沿革
経由地 (現在の地名)旅行ルート
1冊目
アークル (アークル、ハイファ北東、イスラエル)
エルサレム (エルサレム、イスラエル)
ライアス (イスケンデルン、トルコ)
カエサリア (カイセリ、トルコ)
エルズルム (エルズルム、トルコ)
トリス (タブリーズ、イラン)
カズヴィン (ガズヴィーン、イラン)
ヤズド、ザスディ (ヤズド、イラン)
ケルマン (ケルマーン、イラン)
コルモス、ホルムズ (バンダレ・アッバース、イラン)
サプルガン (シバルガン
バルク、バラク (バルフ、アフガニスタン)
ホータン (ホータン、中国)
チャルチャン (チェルチェン、中国)
敦煌 (敦煌、中国)
寧夏 (インチョワン、中国)
2冊目
ハンバリク・大都 (北京にあった元の首都、中国)
ヤンジュウ (揚州、中国)
スージュウ (蘇州、中国)
キンサイ (杭州、中国)
ザイトゥン (泉州、中国)
3冊目
(経由地ではないが、ここにジパングの伝聞記事がある。)
ビンディン (ダナン、ベトナム)
ファーレック
コイルム (コーラム
東方見聞録は4冊の本からなり、以下のような内容が記述されている。
1冊目 - 中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで遭遇したことについて。