東方生存圏(とうほうせいぞんけん、ドイツ語: Lebensraum im Osten)とは、ドイツが東部に獲得するべきとされた生存圏の思想。 ドイツが東部に領土を獲得するべきであるという思想は、ドイツ帝国以前からすでに現れている。プロイセン王国の政治家ハインリヒ・フォン・トライチュケを嚆矢とし、帝政時代にはゲオルク・フォン・シェーネラーやハインリヒ・クラース
目次
1 前史
2 ナチ党の東方生存圏
2.1 ハウスホーファーの影響
3 東方概念
4 第二次世界大戦による生存圏構築
5 理想像の東方生存圏
6 終焉
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
前史
クラースは1912年に「もしわれ皇帝なれば」(Wenn ich der Kaiser war)というブックレットを変名で出版した。この著作の中でクラースは、海外植民地の取得ではなく、本土から陸続きの南東ヨーロッパ、つまりオーストリア=ハンガリー帝国、バルカン半島への植民を主張した。海外植民地に否定的であったのは、民族の力の消耗、民族喪失へとつながる人口流出がもたらされると危惧したためである。また場合によってはロシアから入植地を奪取し、ロシア人を「排除」することも述べていた[2]。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首となったアドルフ・ヒトラーは1920年にクラースと面会し、「もしわれ皇帝なれば」を読んで大きな影響を受けたと告げ、「ドイツ民族にとってもっとも重要なこと、必須のことのすべて」が書かれていると絶賛している[3]。また、ヴェルナー・マーザーはナチ党の25カ条綱領には「もしわれ皇帝なれば」の影響が見られると指摘しており、ナチス・ドイツの政策であるニュルンベルク法やアーリア化はクラースの理念を実現したものであるという指摘がある[4]。クラースは初期ナチ党にも援助を行っていたが、ミュンヘン一揆の裁判ではヒトラーとは無関係であるとして距離を取った。以降、ヒトラーとナチ党は全ドイツ連盟の派閥と絶縁し、著書などでも彼らについて言及することはなくなった[5]。 ナチ党はその25カ条綱領で「我々は、我が民族を扶養し、過剰人口を移住させるための土地を要求する。」としているが、その求める土地がどこであるかは明言していなかった。ヒトラーは1925年の著書『我が闘争』の中で初めて東方に生存圏を獲得するという目的を記述した。 1942年5月20日にヒトラーがベルリン・スポーツ宮殿において将校候補者の前で行った非公開演説では、生存圏の論理が説かれている。ヒトラーは東方から押し寄せてくるアジア内陸の人間、その背後にいる国際ユダヤ人
ナチ党の東方生存圏
この見解は1937年11月の陸海軍首脳を集めた秘密会議においても披露され、8500万人を抱えるドイツ民族の食糧自給は現状では不可能、原料自給も不可能であると語った[8]ヒトラーは、制海権を握るイギリスの海上封鎖に対抗するためには、ヨーロッパに陸続きの食糧供給地が不可欠であるとした[9](ホスバッハ覚書)。
この会議ではチェコの獲得によって食糧事情は一段落するとヒトラーは語っているが、ミュンヘン会談の成功によりチェコを獲得した後も食糧事情は好転しなかった。第二次世界大戦勃発後にポーランドやフランスを獲得した後もイギリスの海上封鎖によって食糧事情は悪化し、食糧・資源の供給地は緊急の課題となった[10]。 戦前から国外ではナチスの生存圏論は、地政学の大家であり、副総統ルドルフ・ヘスの師でもあったカール・ハウスホーファーがイデオローグとなっていると考えられてきた。
ハウスホーファーの影響