この項目では、神奈川県鎌倉市にある東慶寺について説明しています。神奈川県相模原市緑区にある大覚山東慶寺については「峰の薬師」をご覧ください。
東慶寺
本堂
所在地神奈川県鎌倉市山ノ内1367
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度20分6.88秒 東経139度32分44.27秒 / 北緯35.3352444度 東経139.5456306度 / 35.3352444; 139.5456306
東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった[注 1]。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。
※境内での写真撮影は以前より一眼レフでの撮影のみが禁止されていたが、より一層のマナー悪化のためスマートフォンを含む全ての撮影が2022年06月07日から禁止となった[1]。
歴史
鎌倉時代伊豆韮山にある旧東慶寺梵鐘の銘文
東慶寺に残る過去帳等によれば「開山潮音院覚山志道和尚」とある[2]。覚山尼は安達義景の娘で、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の夫人である。
1284年(弘安7年)4月、北条時宗の臨終の間際、無学祖元を導師として夫婦揃って落髪(出家)し、覚山志道大姉と安名し[3][2]。そして翌1285年(弘安8年)に第9代執権・北条貞時を開基、覚山尼を開山として当寺は建立されたと伝える[4]。
ただしそう伝える東慶寺の古文書は江戸時代のものであり、現存する古文書で覚山尼を東慶寺開山とするもっとも古いものは戦国時代天文頃の『五山記考異』である[2][5][注 2]。
鎌倉時代の東慶寺に関する確実な史料は梵鐘の銘文である。鎌倉幕府滅亡前年の1332年(元徳4年)に東慶寺の梵鐘が完成した。ただし今は東慶寺にはなく、静岡県韮山の本立寺にある[6][7][注 3]。その銘文によると大檀那は覚山尼の子、9代執権北条貞時の妻覚海円成である。住持に果庵了道の名があり[注 4]、
他に首座(しゅそ)比丘尼、都寺(つうず)比丘尼の名も見える[注 5]。このことから東慶寺は鎌倉時代からあり、かなりの規模を持つ北条得宗家ゆかりの尼寺であったことは確実とされる[6][注 6]。 東慶寺の「過去帳」には、四世住持果庵了道尼のあと南北朝時代に後醍醐天皇の皇女用堂尼が五世住持となったとある。「由緒書」[8]ではこの用堂尼以来「松岡御所」と称され「比丘尼御所同格紫衣寺なり」とする。用堂尼は兄の護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に入ったとされ、護良親王が殺された当時東光寺[9](現鎌倉宮)周辺、二階堂の地を東慶寺が領有していたのはそのためという。
南北朝時代