この項目では、渋谷の東急文化会館について説明しています。旧・新宿東急文化会館については「新宿TOKYU MILANO」をご覧ください。
「東急文化村」とは異なります。
渋谷東急文化会館
Shibuya Tokyu Bunka Kaikan
東急文化会館(2003年)
店舗概要
所在地〒150-0002
東京都渋谷区渋谷二丁目21-12
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分32秒 東経139度42分12秒 / 北緯35.65889度 東経139.70333度 / 35.65889; 139.70333 (東急文化会館)
東急文化会館(とうきゅう ぶんかかいかん)は、東京都渋谷区にあった複合商業施設。東急百貨店が所有・運営し、渋谷駅前(東口)を代表する文化施設として知られた。1956年(昭和31年)開業。2003年(平成15年)閉業。建物も解体され、替わって跡地には渋谷ヒカリエが2012年(平成24年)に開業している。
「東急文化会館」[2][4]が正式名称であるが、別称「渋谷東急文化会館」を所有者も含めて用いている[5][1]。 建物は、日本を代表する建築家・坂倉準三(坂倉建築研究所)が[2]建築構造設計を行い、舞台機構の設計については森平舞台機構
歴史
しかし、1989年(平成元年)、東急百貨店本店に併設される形で日本初の大型の複合文化施設としてBunkamuraが開業し、東急グループを代表する施設ではなくなった。
2003年(平成15年)、建物の老朽化と東急東横線(渋谷駅‐代官山駅間)の地下化工事および営団地下鉄13号線(のちの東京メトロ副都心線)建設のために閉鎖し、解体され、47年の歴史に幕を閉じた。2008年(平成20年)6月14日、跡地の地下に東京メトロ副都心線が開業した。この施設の跡地は2012年(平成24年)に「渋谷ヒカリエ」として再スタートを切った。
年表
1943年(昭和18年)
1月 - 太平洋戦争の戦況悪化に伴い、東京市立渋谷小学校(現・渋谷区立渋谷小学校の前身)の機能自体の強制疎開(強制移転)が挙行される。跡地(渋谷区金王町36番地。cf. 渋谷区の町名#旧町名)の譲渡先となった東京急行電鉄(現・東急電鉄)は、残された木造校舎を本社分室として再利用することになった[6]。
1945年(昭和20年)
5月24日未明 - アメリカ空軍による東京大空襲の第3次大規模空襲の1日目が決行され、渋谷区全域を含む都心部の焼け残り地域が絨毯爆撃の標的になる[7][8]。同区における空襲被害は翌25日も続いたが、区域の大部分は24日のうちに焼き尽くされている[7][注 1]。当館も本社分室(旧校舎)が全焼する[6]。なお、市立渋谷小学校は5月26日に疎開先で空襲に遭い、全校舎を焼失したことで廃校の危機に瀕している。
月日未特定 - 終戦後、バラックの「渋谷第一マーケット」が開設され、明治通りの拡張に伴い、敷地の増減を経て、現在の敷地が確定する[6]。
東急文化会館(右手前)と渋谷駅(左奥)(1960年頃)
1955年(昭和30年)7月 - 東急文化会館の建設着工。
1956年(昭和31年)
5月15日 - 株式会社東急文化会館の設立。
12月1日 - 東急文化会館の開館 / 運営者は株式会社東急文化会館。館内にて、同日、渋谷パンテオンも開業[1]。