東庄町
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とうのしょうまち 
東庄町
延命寺

東庄町旗東庄町章
東庄町旗東庄町章
1965年12月1日制定

日本
地方関東地方
都道府県千葉県
香取郡
市町村コード12349-8
法人番号1000020123498
面積46.25km2

総人口12,362人 [編集]
推計人口、2024年4月1日)
人口密度267人/km2
隣接自治体銚子市旭市香取市
茨城県神栖市
町の木オオムラサキ
町の鳥コジュリン
東庄町役場
町長[編集]岩田利雄
所在地289-0692
千葉県香取郡東庄町笹川い4713-131
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度50分14秒 東経140度40分07秒 / 北緯35.83717度 東経140.66869度 / 35.83717; 140.66869座標: 北緯35度50分14秒 東経140度40分07秒 / 北緯35.83717度 東経140.66869度 / 35.83717; 140.66869

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東庄町(とうのしょうまち)は、千葉県の北東部に位置し、香取郡に属する。町名は、中世荘園である東荘(東庄)にちなむ。
地理大利根用水(疏水百選)

千葉県北東部、香取郡の東端に位置し、県庁所在地である千葉市から約55キロメートルの距離である。東京都都心から80 - 90キロメートル圏内である[1]都市雇用圏における神栖都市圏に含まれており、通勤率は、神栖市へ14.5%、香取市へ12.4%(いずれも平成22年国勢調査)。利根川を境に茨城県と接している。

関東平野に含まれ、下総台地の東端に近い丘陵地帯を挟む。北側に利根川沿いの低地、南側に九十九里平野の北辺を含む。西北端にあたる笹川地区周辺のみ平坦地であり、大部分が台地である。標高は、平均で海抜40 - 50メートル。最高56.5メートル。各所に谷津田が入り組むように刻まれている。九十九里平野北部への農業用水の供給を目的とした大利根用水用水路)が流れる。
難読地名

羽計(はばかり)

稲荷入(とうかいり)

隣接する自治体

千葉県

香取市

旭市

銚子市


茨城県

神栖市


歴史

古くは、香取海に面した重要な地であり、古代においては陸奥国へ通じる交通の要衝であった。平安時代中期、長元2年(1029年)の平忠常の乱房総一帯が平忠常の支配下に入り、当町の中央部に残る大友城跡を忠常の居城に比定する説もある。乱は数年後には平定され、忠常は降伏したが子孫たちは処刑されることもなく千葉氏と称して房総一帯に繁栄した。その重要な根拠地として東庄があり、源頼朝に重臣として仕えた千葉常胤の第六子胤頼は、東氏を称して東庄を根拠地とし戦国期に至るまで歴代にわたって繁栄し、その総鎮守として東大社が崇敬された。この神社の沿革は古代に遡るもので、平安時代末期以来20年に1度の銚子外川浜までの神輿行列が渡御する神幸祭が今なお続けられている。

近世に入り、東氏もここで没落し、徳川氏の関東入国後天正検地が行われた。当地には後の小見川藩初代藩主松平家忠が藩主となった上代藩が短期間おかれただけで家忠以後大名は配置されず、幕府直轄地や大名、旗本の小規模領地が複雑に入り組んで配置され幕末に及んだ。江戸末期には「天保水滸伝」のような事件が発生するなど、この地に博徒が横行したが、その一方、学問も盛んで江戸後期には平田篤胤が逗留したこともある。また旧笹川村からは林半兵衛のような和算家も輩出されている。

明治維新後、笹川村、神代村、東城村、橘村が形成され、商業、水産や農業が盛んとなった。1931年昭和6年)には国鉄成田線笹川駅まで延伸され、同8年(1933年)には下総橘駅を経て松岸駅まで開業した。当時茨城県側からは渡し船で当地と連絡しており、交通、教育、商取引の面で関係が深かった。その後、1955年(昭和30年)7月には合併により当町「東庄町」が誕生。1971年(昭和46年)3月に、当町と利根川対岸の神栖市にまたがる塩害防止と水資源確保を目的とした全長約1キロメートルの河口堰である利根川河口堰が完成した。また対岸の神栖市や鹿嶋市などで、昭和30年代から鹿島臨海工業地帯の開発が行われ、それに伴う人口増により当町内にも住宅団地が造成されるなど、現在も利根川対岸の茨城県との関係が深い。
郷土史

当地には鹿之戸村があった(旧笹川村範囲)が、これはもともと鹿之渡であり、鹿島神宮の神鹿が、香取神宮との往来の際にここを通過したからだといわれている。春日大社に鹿嶋神の分霊を勧請したときも分霊を鹿にのせてここを通過したとも。源頼朝が鹿島神宮に自ら参拝したときには、当地の東氏の館に宿泊したといわれている。鹿島神宮から南下して、直線距離で一番近い利根川の渡河点は東氏の居城とされた森山城須賀山城跡にあたる。

古くは、高望王の子で千葉氏の祖平良文がここに拠点の一つを置いていたとされる。また、千葉常胤もここを下総国府台、佐倉、千葉などと並んで、拠点の一つにしていた。常胤は六男の胤頼にここを与えたが、その後もここは千葉氏の求心力のある土地であり続けた。笹川村の鎮守である笹川諏訪神社の宮司家は香取大宮司家と親戚であった。また同神社に隣接する延命寺は鹿島神宮寺の末寺であり、この土地が古くから鹿島・香取両神宮と縁が深かったことが窺える。室町時代におきた隣郡の鹿島氏の内紛では、当主の鹿島義幹が一時、東氏を頼って逃げてきている。重複するが、千葉氏との関わりがこの土地は強く、須賀山城跡の側にある東福寺は実質的な最後の千葉宗家当主であった、千葉邦胤が灌頂会を行った寺である。
沿革

1955年(昭和30年)7月20日 - 笹川町橘村神代村東城村の1町3村が合併し、東庄町が発足。


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