東山魁夷
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東山魁夷
東山魁夷(学生時代)
本名東山 新吉
誕生日 (1908-07-08) 1908年7月8日
出生地 日本神奈川県横浜市
死没年 (1999-05-06) 1999年5月6日(90歳没)
死没地 日本千葉県市川市
国籍 日本
芸術分野日本画家著述家
教育東京美術学校卒業
受賞日展特選
1947年 残照
日本芸術院賞
1956年 光昏
毎日芸術賞大賞
1969年 朝明けの潮
文化勲章文化功労者1969年
会員選出組織日本芸術院
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東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年明治41年)7月8日?1999年平成11年)5月6日)は、日本の画家、版画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人で、風景画の分野では国民的画家といわれる[1]文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民[2]。本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。
来歴・人物

船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として神奈川県横浜市海岸通に生まれる。父の仕事の関係で3歳の時に兵庫県神戸市西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)の日本画科へ進学した。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に『山国の秋』を初出品し、初入選を果たす。1931年に美術学校を卒業した後、1933年、ドイツのベルリン大学(現:フンボルト大学)に留学。1934年日本とドイツとの間で交換留学制度が始まり、第1回日独交換留学生(日本からのドイツ学術交流会最初の留学生[3])として2年間の留学費用をドイツ政府から支給されることになり、11月ベルリン大学文学部美術史科に入学したが、父が危篤の報を受け奨学金支給期間を1年残したまま日本に帰国した[4]。1940年には日本画家の川ア小虎の娘すみと結婚。同年、東北地方へのスケッチ旅行で足を延ばした種差海岸青森県八戸市東部)の風景とそこにいるに取材した『凪』を紀元二千六百年奉祝美術展に出展した。種差を題材にしたと思われる作品は生涯で17点ほどあり、馬も東山作品のモチーフとなった[1]

太平洋戦争に前後して、画業でも家庭でも苦難が続いた。1941年には母が脳出血で倒れて療養生活に入り(1945年11月死去)、事業に失敗した父は翌1942年に急死。

1945年4月には母と妻を伴って高山岐阜県)へ疎開するも、7月には召集令状を受けて入営熊本県で爆弾を抱えての対戦車体当たり攻撃の訓練を受けるうち終戦を迎えた[1]。召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現:南アルプス市)に一旦落ち着く。
戦後

1945年11月に母が死去すると千葉県市川市に移った。市川では、馬主としても知られる実業家・中村勝五郎から住居の提供など支援を受けていた。1946年の第1回日展には落選し、直後に結核療養中だった弟が死去。東山魁夷は当時の境遇を「どん底」と回想しつつ、「これ以上落ちようがない」と思うとかえって気持ちが落ち着き、「少しずつでも這い上がって行く」決意を固めた[1]

1947年の第3回日展で、鹿野山(千葉県君津市)からの眺めを描いた『残照』が特選を得て日本国政府に買い上げられたことから世評が高まり、風景を題材とする決意を固め[1]、独自の表現を追求した。


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