東富士欽壹
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この項目では、昭和20年代に活躍した横綱の東富士について説明しています。平成15年3月場所初土俵の富士東については「富士東和佳」をご覧ください。

東富士 欽壹

横綱土俵入りを行う東富士(1948年11月17日)
基礎情報
四股名東富士 欽壹
本名井上 謹一
愛称キン坊
幕下三羽烏
大将
怒濤の寄り身
動く富士山
江戸っ子横綱
生年月日1921年10月28日
没年月日 (1973-07-31) 1973年7月31日(51歳没)
出身東京府東京市下谷区
(現・東京都台東区
身長179cm
体重178kg
BMI55.55
所属部屋富士ヶ根部屋高砂部屋
得意技左四つ、寄り、上手出し投げ[1]
成績
現在の番付引退
最高位第40代横綱
生涯戦歴335勝137敗1分1預54休(46場所)
幕内戦歴261勝104敗1分1預54休(31場所)
優勝幕内最高優勝6回
十両優勝1回
幕下優勝1回
データ
初土俵1936年1月場所[1]
入幕1943年5月場所[1]
引退1954年9月場所[1]
引退後プロレスラー・金融業
備考
2014年8月16日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 - 1973年7月31日)は、東京市下谷区(現・東京都台東区)出身で高砂部屋(入門時は富士ヶ根部屋)に所属した大相撲力士・第40代横綱・元プロレスラー・実業家。本名は井上 謹一(いのうえ きんいち)[1]
来歴
初土俵?三役

子供時代から巨躯・怪力で、大人に交じって家業の鉄工所を手伝っていたことから“下谷に怪童あり”と評判になる。その評判を聞きつけた富士ヶ根が勧誘して入門させ、1936年1月場所に初土俵を踏む。しかし、緊張から鍛え上げられた力を発揮できずに前相撲を通過して番付に載るまで2年を要したが、幕下時代から双葉山定次に目をかけられ、「キン坊、来い」と呼ばれては猛稽古で鍛えられた[2]

双葉山定次の猛稽古によって順調に力を付け、1942年1月場所で新十両昇進。1943年1月場所では十両東2枚目の地位で14勝1敗の十両優勝を果たすと、同年5月場所で新入幕を果たす。十両上位で14勝の好成績を残したことで新入幕の場所は東前頭8枚目に位置づけられ、いきなり横綱・三役陣と総当りさせられたが[注 1]照國萬藏安藝ノ海節男の2横綱には敗れたものの、2関脇・1小結を倒して10勝5敗[注 2]の好成績を残した。前頭筆頭で迎えた1944年1月場所7日目には、かつて胸を借りた双葉山の横綱土俵入りで露払いを務めた(太刀持ち前田山英五郎[2]

その後も1場所途中休場による負け越しがあったもののすぐ幕内上位に定着し、新関脇での1944年11月場所では東西の編成替えで初めて双葉山と敵方になり、同場所6日目にその双葉山定次を上手投げで破って恩を返した。この取組が、結果的に双葉山が土俵に上がっての最後の敗戦にもなった[1]
大関時代

第二次世界大戦中の一時期は、出羽海部屋に身を寄せて巡業や稽古を共にした。そのまま移籍する話も持ち上がり、当人も出羽海側も移籍のつもりだったが、高砂一門の総帥である前田山がこれを認めなかったことで、東富士は半ば脱走するように出羽海部屋を去らなくてはならなかった。しかし、この一件が背景を知らない出羽海の力士との間に遺恨を残すことになり、これも本場所で実力を発揮しきれなかった一因と考えられている。

1945年6月場所は、戦局の悪化によって旧・両國国技館にも空襲があり、それによって天井に穴が開いた状態で開催されたことで、晴天のみ7日間興行となった。東富士はこの場所を羽黒山政司佐賀ノ花勝巳の1横綱1大関はじめ対戦のあった三役力士はすべて破って6勝1敗の好成績を残した。この1敗は6日目、朝からの雨で中止と決めつけて昼から酒を飲み、予定通り開催と知って慌てて国技館に駆けつけて出場、平幕の十勝岩豊うっちゃりで敗れたものである。この失態によって優勝はこの場所7戦全勝だった備州山大八郎に浚われたが、前場所の9勝1敗(優勝同点)に続く好成績だったことで関脇を2場所で通過、戦後最初の場所となった1945年11月場所で大関に昇進する。

新大関の場所は全勝の羽黒山に敗れただけの9勝1敗の星を残した[注 3]が、1946年の巡業で右足に重傷を負い、直後の11月場所は平幕戦だけで3敗するなど7勝6敗。これ以降は後遺症で成績が不安定となる。1947年6月場所では9勝1敗で羽黒山と前田山、力道山とともにこの場所からはじまった優勝決定戦に出場するが、1回戦で前田山に敗れ、続く11月場所は新鋭の千代ノ山叩き込みに敗れるなど6勝5敗に終わる。

1948年5月場所では力道山にうっちゃりに敗れただけの10勝1敗で初優勝。力道山に敗れた1番は、力道山が立ち合いから猛烈に突っ張って出て、東冨士は左を差すと一気に出て土俵際、腰を落として寄り倒そうとしたが、力道山は必死にこらえ、力を振り絞って右へうっちゃった、という流れであった[3]。同10月場所は増位山大志郎に本割・決定戦ともに敗れて優勝同点だったもののやはり10勝1敗で、場所後に横綱免許を授与された。これは吉田司家が授与した最後の横綱免許となった(次に昇進した千代の山からは協会が授与するようになった)。
横綱昇進後東富士(左)が上手投げで栃錦を破った瞬間(1953年10月29日・秋場所11日目)1950年夏場所で優勝し、記念撮影で賜杯を持つ東富士

新横綱の1949年1月場所から高砂部屋の所属となる[1]。この場所6日目の神風戦は相手のまぶたが切れて出血のために取組続行不能とされ痛み分けとなり、この1分があって同部屋で平幕下位の國登を半星差で追う形になったが、千秋楽國登が敗れて逆転、10勝2敗1分で双葉山(1938年1月場所)以来となる新横綱優勝を果たした。

続く5月場所は終盤横綱大関陣に5連敗を喫してやっと勝ち越しの8勝7敗に終わる。皆勤横綱の5連敗は現在でも最多タイ記録である。

1950年1月場所は左足首関節挫傷のため3日目から休場。他の2横綱も照國は4日目から、羽黒山は5日目から相次いで休場し「横綱不在」となってしまう。東富士は7日目から、羽黒山は11日目から再出場するもともに6勝に終わる。前場所1949年10月場所では前田山が「シールズ事件」で引退に追い込まれていたこともあり、横綱のあり方について批判が噴出し、相撲協会でも一度は「連続負け越しか休場で大関へ降格」とする新制度の導入を発表(のち撤回)、大関で連続優勝を果たした千代の山は時期尚早を理由に横綱を見送られることになり、横綱審議委員会の発足へつながっていく。

続く5月場所では前場所の雪辱を期すように3横綱で優勝を争い、東富士1敗?羽黒山2敗で千秋楽結びの一番となり、これに勝って14勝1敗で3度目の優勝を果たす。

1951年9月場所は場所中から急性肺炎による高熱に悩まされ、11日目から3日間土俵入りを休むなど苦難の場所となった。特に12日目の吉葉山潤之輔との一番では医師からも「こんな病身で相撲なんか取って死んでも知らんぞ」と制止されながら、「命に関わっても文句は言わぬ」と誓約書を出して出場。この日の1度目の取り組みは東冨士の怒涛の寄り倒しに軍配が上がったものの物言い。取り直しになるも熱の入った攻防の末に水が入り、再開後、吉葉山の寄りを東冨士がうっちゃり、軍配は吉葉山に上がったがまたも物言い。協議の結果、これ以上取らせるのは不可能と判断され、吉葉山の了承を得て、勝負預りとなる死闘となった。他に9日目関脇栃錦に敗れた1敗があったものの13勝1敗1預で、4度目の優勝を果たす[4]。またこの場所は千代の山の横綱昇進で、羽黒山・照國・東富士と4横綱時代となっており、1938年5月場所以来13年ぶり史上2度目の4横綱総当りも実現したが、東富士は横綱戦3戦全勝を記録している。系統別総当り制のもとでの4横綱総当りは、不戦勝をまじえない純然たるものとしてはこれが最後で、次に実現するのは部屋別総当りとなった1965年9月場所でのことになる。


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