東宮鐵男
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東宮 鐵男

生誕 (1892-08-17) 1892年8月17日
日本群馬県勢多郡宮城村
死没 (1937-11-14) 1937年11月14日(45歳没)
中華民国浙江省平湖県
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1915年 - 1937年
最終階級陸軍大佐
勲章

勲四等瑞宝章
功五級金鵄勲章
勲四等旭日章
功四級金鵄勲章
勲三等旭日中綬章
出身校陸軍士官学校
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東宮 鉄男(とうみや かねお、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:東宮 鐵男、1892年明治25年)8月17日 - 1937年昭和12年)11月14日)は、日本の陸軍軍人。「満洲移民の父」と呼ばれた[1]

満洲を中心に活動した。張作霖爆殺事件の実行者であり、満洲への移民を推進した中心人物として知られる。日中戦争初期の1937年、歩兵第102連隊大隊長として中国で戦死した。死後特進し陸軍大佐となる。
出自

1892年明治25年)8月17日、群馬県勢多郡宮城村大字苗ヶ島で9人兄弟の末弟として生まれる。父は群馬県士族村長も務めた東宮吉勝。旧制前橋中学校利根分校で3年間学んだ後、同本校に編入し1911年(明治44年)卒業[2]1912年大正元年)12月1日士官候補生として近衛歩兵第3連隊入隊[2]1913年(大正2年)12月1日陸軍士官学校に入学し1915年(大正4年)5月25日に卒業(27期)。同年12月25日に陸軍歩兵少尉に任官し、近衛歩兵第3連隊附を命ぜられる[2]

1919年(大正8年)4月に中尉に進級[2]。翌年6月歩兵第50連隊附に移り、シベリア出兵に参加。この時赤軍の強さを実感し、ソ連コサック兵をモデルとする武装農民の必要性を痛感、対抗策を模索し始める。

1923年(大正12年)1月から1年間広東に私費留学し、中国語を身につけた。1925年(大正14年)8月大尉に進級し、1926年(大正15年)3月近衛歩兵第3連隊中隊長を命ぜられた[2]。同年12月独立守備隊第2大隊中隊長に就き、奉天に屯在する。
張作霖爆殺事件

1928年昭和3年)6月4日の張作霖爆殺事件に於いて、実行者として爆破スイッチを押したという。
背景

当時の中国は各地で軍閥が跋扈しており、その一人である張作霖は北平において安国軍政府を樹立し、「陸海軍大元帥」を自称していた。馬賊出身の張が満洲の王者になれたのは日本軍の支援の結果であったが、15万人の兵力をもつまでに成長、さらに華北に進出すると、米英に接近、日本の利権を脅かし、また、中国本土進出への野心を示しながら、たびたび失敗する張に日本側の懸念も高まり、関東軍には張を排除し、傀儡政権を立てるなり、より直截に満洲を支配しようという意向が強まっていた[3][4]。1926年(大正15年)7月から?介石を総司令とする国民革命軍北伐を始め、張作霖軍を討つ事を目論む。北平にあった張作霖は本拠である満洲へ戻ろうとするが、張作霖の帰満が戦略に影響することを恐れた関東軍もまた張作霖軍の武装解除を企図した。

しかし、武装解除の作戦地域として想定した錦州は関東軍の衛戍地である南満洲鉄道附属地からはずれることから出兵は海外派兵にあたり、手続きの段階で関東軍と参謀本部、政府との調整が取れず、この時点で関東軍は動きを起こせなくなった。そこで関東軍は派兵のために既成事実を作って政府には事後承認を得ることとする。張作霖事件はその一環で、関東軍高級参謀河本大作大佐を中心に謀られた。
実行

1928年(昭和3年)6月4日、東宮は事前に小部隊を率いて爆破地点の皇姑屯に潜み、午前5時23分、張作霖を乗せた列車が奉天郊外約2キロの京奉鉄道線南満洲鉄道(満鉄)連春線が交叉する鉄橋に差し掛かったところで爆破のスイッチを押した。橋脚に仕掛けられた黄色火薬30袋が炸裂して張作霖の乗る9号車貴賓車を含む4輛が大破、うち2輛が炎上した。河本らはこれを中国人の謀略と見せかけるために、中国人阿片中毒者を調達、殺害して、懐中に国民革命軍のしるしがある手紙をしのばせ、屍体を現場附近に放置した。張作霖は絶命せず密かに自宅へ運ばれ、ここで息絶えた。当時この事件は「満洲某重大事件」と呼ばれ、一般国民には真相は秘匿されていた。
事後

事件とその事後処理を巡って内閣総理大臣田中義一昭和天皇の?責を受け総辞職することとなるが、以後も国民には秘匿され、世間に広く知られるようになったのは戦後になってからである。

事件後の1929年(昭和4年)8月東宮は岡山にある歩兵第10連隊中隊長に移る。東宮は1930年(昭和5年)3月の日記に、「男子として、河本大佐一人を犠牲にするにしのびない。退職後は河本大佐と一緒に国家的事業につくことができれば、もっとも望むところである。」と記しており、退職を覚悟していたが、連隊長の小畑敏四郎に慰留されたという[5]

この時歩兵第10連隊には後に作家となる棟田博伍長勤務上等兵で将校集会所当番長として勤務していた。棟田は戦後「日本陸海軍のリーダー総覧」において、東宮は将校団に馴染もうとせず、他の将校も敬遠していたと回想している。軍上層部は張作霖事件のほとぼりが冷めるまで岡山へ移したものだという[6]。岡山での東宮は、中隊長着任の挨拶を営倉に入倉している部下のところへわざわざしに行ったり、中隊標語で「よし、やりぬこう」という、おおよそ標語らしからぬ言葉を示すなど[7]、一風変わった振る舞いを見せた。しかし勇猛果敢な中隊長で、その純情熱血はあらゆる人を感化し、上司の誰もが至誠の人と評価するようになった。また、人情中隊長として連隊中に知らない者はなく、他の中隊では東宮中隊を羨望したぐらいであった。1930年(昭和5年)10月から6ヶ月間、千葉の陸軍歩兵学校に甲種学生として在学した。1931年(昭和6年)12月、渡満の際には出征と変わらないほどの見送り人がいて、第3中隊の多くは、中隊長と別れるのが辛くて泣いたという。
武装移民団

爆殺事件後、東宮は満蒙開拓移民の構想を抱き、しばしば上申した。この構想は満洲を日本の生命線としていた関東軍首脳の興味をとらえた。

1931年(昭和6年)12月に満洲出張を命ぜられ、翌年4月関東軍司令部附を補職され、満洲国軍政部顧問に就任、満洲国軍吉林省警備軍軍事教官を務める。この時、拓務省水戸市の農業訓練所長で農本主義者の加藤完治らと組んで、日本国内から満洲への移民を推進した。加藤とは石原莞爾を介して1932年(昭和7年)7月14日、大連の大星ホテルで会ったと『東宮鉄男伝』は記録している[8]


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