東宝特撮
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東宝特撮(とうほうとくさつ)とは、東宝が製作した特撮映画である。
沿革
前史

東宝特撮の歴史は、東宝の前身のひとつであるJ.O.スタヂオによって制作された1937年の日独合作映画『新しき土』まで遡れる[1]。同作品では、円谷英二が開発したスクリーン・プロセスが初めて採用された[2]

1938年、東宝取締役の森岩雄は、J.O.スタヂオで頭角を現していた円谷のために特殊技術課を設立した[出典 1][注釈 1]。1940年にその第1作として『海軍爆撃隊』が制作された[3][4]。以後、戦時中の特撮は戦争映画を中心に発展していった[4][5]

1940年の『エノケンの孫悟空』は、筋斗雲を飛行機風に描写したりテレビジョンが出てきたりするなど、SF映画の源流ともいえる作品である[3][4]。そして、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』は特撮シーンを前面に押し出した記念碑的作品である[3][4]。ただし、この時代の特撮はあくまでも撮影技法の一部に過ぎず、当時は「トリック撮影」と呼ばれていた[6]

終戦後、戦争映画の製作で国威発揚に加担したとして森や円谷が公職追放され、特殊技術課は解散となったため、一時途絶える[出典 2]
特撮映画の勃興期

公職追放されていた森と円谷は、1952年に東宝へ正式に復帰し、『太平洋の鷲』『さらばラバウル』などの戦記映画を手がけた[出典 3]

1954年、インドネシアとの共同合作映画『栄光の陰に』が製作中止になり、東宝のプロデューサーであった田中友幸は急遽空路で帰国した。その機中で田中は「海から現れる巨大な怪獣」というアイデアを思いつき、円谷が考えていたアイデアも含められて同年に『ゴジラ』が製作され、現実映像の代替手段ではない空想映像としての特撮映画が誕生する[8]。また、同年には特撮技術を応用した『透明人間』も製作された[9]

1956年、初のカラー作品である『白夫人の妖恋』が上映された[9]ほか、変身人間シリーズや『地球防衛軍』に始まる怪獣作品以外のSF、『日本誕生』などの歴史スペクタクル特撮作品などに特撮は活躍した[10][11]

1956年の海外版『ゴジラ』のヒットを受け、特撮映画は外貨獲得手段としても注目され、1957年に東宝は再び特殊技術課を設立した[5]。外部参加やアルバイトであった主要スタッフは東宝の正社員や技能契約者となり、特撮専用の大プールや第11ステージの建設、特撮関連の部署を集めた特技センターの建設など、制作体制が整えられていった[5]

1962年の『キングコング対ゴジラ』は1,255万人を動員する大ヒットを記録し、黄金期を築いた[出典 4]
ゴジラシリーズと戦争映画

1960年代になると日本映画自体の斜陽化が始まり、東宝特撮も大きな岐路に立たされる。好調であった特撮路線に海外資本を取り込み、『フランケンシュタイン対地底怪獣』『怪獣大戦争』『キングコングの逆襲』などの日米提携作品を制作した[14]

一方、円谷が手がけ、1966年に放送が始まったテレビ特撮作品『ウルトラマン』は高視聴率を記録し、映画会社にとって格下と看做されていたテレビとの逆転が生じた。これにより、第一次怪獣ブームが巻き起こるが、観客層は低年齢化していった[15][11]。その影響を受け、ゴジラシリーズも第1作で恐怖の象徴であったゴジラが「子供のヒーロー」として脚色されるようになる。なお、海外の映画会社との共同制作となった1969年の『緯度0大作戦』は相手側制作費を肩代わりしたにもかかわらず、興業に失敗した[16][17]

1970年には円谷が死去し、特殊技術課は廃止となった[18]

結果として、ドル箱作品であるゴジラシリーズと空戦や海戦のシーンで特撮が用いられていた戦争映画だけが東宝特撮作品として残ることになった[16][19]。さらに、ゴジラシリーズは子供向け同時上映興行「東宝チャンピオンまつり」に組み込まれることになった[出典 5]
ゴジラシリーズの終了とパニック映画の台頭

1970年代になると第二次怪獣ブームに乗ってゴジラシリーズの人気は続いたが、オイルショックによる物価高騰と不況は、制作費の高騰と興行成績の悪化を招いた。

戦争映画は特撮を主体としないものへの移行を経て休止された[19]ほか、ゴジラシリーズも特殊撮影課から分離された東宝映像による製作に移行された[19][21]。しかし、徐々にゴジラシリーズの興業も悪化して制作費やスケジュールは圧縮、特撮シーンや造芸は旧作からの流用が目立ち始め、徐々に作品の粗雑化が進んでいく[22][23]


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