東宝争議(とうほうそうぎ)は、1946年から1948年にかけて三次にわたり、日本の大手映画製作会社、東宝で発生した労働争議を指す。特に1948年の第3次争議は大規模なもので、最終的には撮影所の接収に警視庁予備隊および連合国軍の一員として日本の占領業務にあたっていたアメリカ軍までもが出動した。戦後最大の労働争議と言われる[1][2]。 連合国軍総司令部内で敗戦日本の文化戦略を担当した民間情報教育局の映画班初代班長デヴィッド・コンデは撮影所での労働組合の結成を急がせ、会社と交渉する方法等についても組合を指導した[1]。 1945年(昭和20年)12月、東宝では、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、東宝従業員組合(従組)が結成された。従組は全日本産業別労働組合会議の日映演に加盟し、たびたびストライキを行った。 今井正や山本薩夫など日本共産党員が戦争中から在籍していたこともあって、労働運動は一挙に盛り上がり、従業員の9割、5,600名の組合員を持つ巨大勢力となって会社と対決するようになった。 こうなった背景には、東宝は戦前から人材不足で仕事にあぶれていた学生運動家・労働運動家・社会主義者らを沢山雇入れており、これが戦後の日本共産党解禁で吹き上がった。1946年3月の賃上げ争議(第一次)で東宝従業員組合は日本共産党の指導で勝利し、同じく共産党の指導の下で同年4月結成された日本映画演劇労働組合に加盟している[3]。 1946年(昭和21年)3月に第1次争議、同年10月に第2次争議が起こった。第1次争議は比較的穏やかなものだったが、第2次争議は従組が労働時間の制約など様々な新協定を会社側に認めさせた。ストや新協定の混乱により映画撮影はままならず、東宝の同年度の製作本数は18本で、他社の半数までに落ちた。 同年11月、ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子の十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱。渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した[4]。 1947年(昭和22年)3月、「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝を設立した[4]。 東宝は健全な運営は難しくなっていたが、当時の経営陣は巨大な従組と直接対決を避けるため、従組を「第一製作部」、従組離脱組を「第二製作部」として、あえて離脱組を冷遇した。また、離脱したスターの穴を埋める為、三船敏郎、久我美子、若山セツ子、岸旗江、伊豆肇などの新人若手俳優を積極的に起用した。彼らは「東宝ニューフェイス」と呼ばれた。 1947年(昭和22年)12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わった。社長の田辺加多丸 これを受けて4月15日に従組は生産管理闘争に突入、東京砧撮影所を占拠して資機材を管理下に置き、正面入口にバリケードを作って立てこもった[4]。これによって第3次争議の始まりとなる。一方経営側は、5月1日・メーデーの日に会社は休業を宣言。従組は東京地方裁判所に会社の営業再開を求める仮処分を申請したが、会社側も占有解除を求める仮処分を申請し対抗し8月13日に東京地裁は会社側の申請を認め占有解除の仮処分執行を決定した。 翌14日に裁判所の執行吏が砧撮影所へ向かったが、この時は立てこもっていた従組組合員800名によって入場を拒否される。 改めて8月19日に仮処分執行を決定するが、その前から労働者2,500名が砧撮影所に立てこもった。五所平之助、今井正、楠田清
事件概要
背景と日本共産党の指導
第1次・2次争議勃発、新東宝の設立
第3次争議勃発大量解雇を通告した砧撮影所所長、北岡寿逸
同日早朝、日本の占領業務にあたっていた連合国軍の一角をなすキャンプ・ドレイクに駐留していたアメリカ陸軍第1騎兵師団司令官ウィリアム・チェイス(英語版)少将は、カービンで武装したアメリカ軍MP150名、歩兵自動車部隊1個小隊、装甲車6両、M4中戦車3両、航空機3機を率いて砧撮影所を包囲した。これらの部隊は、ヒュー.F.T.ホフマン[6]代将指揮のアメリカ軍地上部隊だった。チェイスは航空機から指揮を執った[7]。
同日午前8時30分、警視庁予備隊2,000名が仮処分の執行援助の為に砧を包囲した。小田急小田原線成城学園前駅での乗降を禁止し、砧撮影所に通じる道を封鎖した。
同日午前9時30分、成城警察署署長もしくは執行吏と会社側代理人の弁護士が[8]、アメリカ軍トラックに乗り、十数人の警官隊に守られながら、砧撮影所の正門まで行き、従組に、執行吏による仮処分受諾を要求し、従組代表と交渉した。
同日午前10時30分、警視庁予備隊部隊が、戦車に先導されて砧撮影所正門前に展開し始めた。亀井文夫が、砧撮影所正門前の予備隊に向かって、「正義は暴力によっては踏みにじられない」と書いた紙を掲げた。その後、従組は、軍に包囲された以上、力での抵抗は不可能と判断し、職員会議を開いて仮処分の受け入れを決定した。
同日午前11時過ぎ、組合員2,500名は互いに腕を組み、インターナショナルの歌を歌いながら撮影所を退去し、演劇研究所に撤退した。続いて執行吏が所内に入り、仮処分執行の公示書を掲示した。
このとき、日映演東宝分会は、砧撮影所の他に、東宝営業部門(映画館)も占拠していた。渡辺銕蔵は、映画館を閉鎖されると直接会社経営に響くことから、商売の面から争議の切り崩しを図った。東宝監督の渡辺邦男を、愚連隊の首領・万年東一に遣わして、日比谷の映画館のスト破りを依頼した。万年は、連日“小光”小林光也や“新宿の帝王”加納貢ら、50人から100人の配下を連れて、映画館を襲撃し、組合員を追い出した。また連日の闘争費用を東宝に要求したが、成功報酬は受け取らなかった。
同年10月18日、組合最高幹部の伊藤武郎、宮島義勇は、渡辺社長らと会談。ここで、組合幹部20名の自主的な退社と交換条件で、解雇されていた残り250名の解雇を撤回することで合意がなされた。さらに、大規模な人員整理の凍結などが認められ、組合側と会社側による覚書の調印によって、ようやく第3次東宝争議は正式に決着した。