東宝チャンピオンまつり
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東宝チャンピオンまつり(とうほうチャンピオンまつり) は、東宝1969年(昭和44年)から1978年(昭和53年)にかけて行った映画興行プログラムの名称[1]。主に子供向け映画を数本まとめて春休み夏休み冬休みの時期にあわせて劇場公開した[出典 1]
概要

編成はメインとなるゴジラ映画(旧作や改題作品を含む)に、連続テレビ作品の放送済みの1エピソードを数本加えた形式が多かった[4][1]。テレビアニメ作品は東京ムービータツノコプロ製作の作品が多い[1]。また、まれにスポーツ映画やアイドル映画が上映されることもあった[1]

そもそもの発想は、東宝プロデューサーの田中友幸が「低予算であってもとにかくゴジラ映画を残したい」との一念で企画したものだった。また、「チャンピオンまつり」の名称には、文字通りゴジラと他の怪獣たちが「チャンピオン決定戦」を映画で繰り広げる、という意味合いが含まれている。
企画経緯

1969年(昭和44年)当時、東宝は邦画の斜陽化[注釈 1]を受け、深刻な興行不振に陥っていた[出典 2]。一方、ライバル会社の東映ではこの時期、『東映まんがパレード』を『東映まんがまつり』と改題し、自社制作の中編アニメ映画と自他社制作のテレビアニメ映画を組み合わせ、春・夏・冬休みの子供向け興行の目玉として好評を博していた[7]

これに着目した東宝は、東映の「まんがまつり」の形式で自社の看板である「怪獣映画」をプログラム興行できないかと検討する[8][注釈 2]。この際の東宝企画部で起こされた企画書では、「『東映まんがまつり』が、長編アニメと短編アニメを一緒に上映して好評を博している。そこで東宝も、従来の怪獣映画を短く編集してアニメーションと同時公開してはどうか」と記されており、「怪獣のチャンピオンであるゴジラ、男の子向けアニメのチャンピオンである『巨人の星』、女の子向けアニメのチャンピオンである『アタックNo.1』を一緒に東宝で公開する」というコンセプトから、このプログラムは『東宝チャンピオンまつり』と名付けられ、当時ブームとなっていたスポ根物アニメを主幹とした構成とし、この年の冬休み興行として新作映画『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』に、これも新作の特撮映画『コント55号 宇宙大冒険』、テレビアニメ『巨人の星』を加えて公開されるに至った。
ゴジラシリーズ

看板である「ゴジラシリーズ」の新作映画を「東宝チャンピオンまつり」枠で公開することとした東宝であったが、上述した深刻な興行不振から、この枠となってからは大幅に予算縮小が行われ、それまでの特撮映画の予算から、1/3以下の制作予算となった[8]。このため、第一回作品『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(本多猪四郎監督)は徹底した省予算が企画書から明記され、怪獣の登場場面もほとんどが過去作品からの抜き焼きしたフィルムで構成する異例の作品となった[7]。この興行スタイルとなって以降、「ゴジラシリーズ」は『メカゴジラの逆襲』(1975年、本多猪四郎監督)まで、「末期的」(川北紘一談)とまで言われる徹底した低予算での制作が常態化していく[注釈 3]。また、内容も児童向けであることが意識され[出典 3]、ゴジラもヒーローとして描写されていった[2][11]

この背景として、映画業界の斜陽に加え、1970年の円谷英二の死去とその後の東宝の機構改革も影響している[出典 4]。東宝は1970年から1971年にかけて、美術部門を東宝美術、技術部門を東宝映像、製作部門を東宝映画、撮影所を東宝スタジオに分離し、それぞれ独立採算制を取るかたちとなった[8]。これにより、東宝本社と各社は下請けの関係となり、本社から支払われる予算は各社の中間費が引かれるため、製作の直接費は目減りする結果となった[12][注釈 4]

さらに、各分社間でも費用が生じることとなり、東宝映像カメラマンの桜井景一によれば、以前は倉庫から取り出してくるだけであったミニチュアが、独立採算制となった結果、ミニチュアを管理する東宝美術から映像を制作する東宝映像に数万円請求されるようになったため使いづらくなったと証言している[13]

なお、映画制作は東宝映画が手掛け、東宝映像はCMやイベント映像などを手掛けるというかたちで棲み分けていたが、特撮作品のみはゴジラシリーズの生みの親である田中友幸が社長を務めていた東宝映像が制作していた[14]。さらに、東宝の配給・興行網はこれらの直系政策委会社だけでなく、勝プロダクション、ホリ企画制作などの外部プロダクションに広く開放されることになり、これらの企業は大映や日活に孫請けさせることが多かったため、東宝撮影所を用いた製作本数は年間数本に激減、数十本を製作していた60年代から見れば実質製作中止にも等しい閑古鳥状態に陥ってしまった。

特技監督の中野昭慶によれば、円谷がいなくなったことにより特殊技術課を解体するという意図も動いていたという[15]。東宝美術特殊美術課長の白ア治郎は、円谷組の仲間が引き離されることになり、辛い時代であったと述懐している[16]

東宝美術の特殊美術スタッフであった小村完は、収益を上げるためには多くの仕事をなんでもこなさなければならず、そのような体制であったことがゴジラの質を低下させる結果になったと述懐している[17]
再上映作品

年3回の興行を満たすため、第二回興行からは、東宝の過去作品のリバイバル上映が組み込まれることになった[4]。しかし、当時の興行規定から、再上映は原版と同じ上映時間が認められていなかった[注釈 5]。このため、この際の上映作品『キングコング対ゴジラ』(1962年、本多猪四郎監督)は「短縮版公開」となった。しかし、ネガフィルムの複製予算を省くため[要出典]、保管してあったオリジナルネガを直接裁断・編集されてしまった[1]。続く『モスラ対ゴジラ』(1964年、本多猪四郎監督)以降、『怪獣総進撃』(1968年、本多猪四郎監督)までのゴジラ映画、また『モスラ』(1961年、本多猪四郎監督)や『キングコングの逆襲』(1967年、本多猪四郎監督)といった特撮映画が再上映されるたびに、オリジナルネガ編集は行われ、慣習化され、原版を損ねる結果となった。

こうした「オリジナルネガ再編集」の際には、カットされたフィルムはぞんざいに別のフィルム缶に納められ、倉庫の奥へ片付けられていた[要出典]。1980年代のビデオソフト時代になってようやくこれら切り落としフィルムを繋ぎ直して復元されることとなったが、繋ぎ目の部分のコマ飛びや色調の狂いを生むこととなっている。ゴジラシリーズの監督を務めた本多は、再編集版について「色も酷いし音も潰れてて、ほんとにガッカリするようなものになっていた」と評している[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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