東学
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日本の画家の東學(あずま がく)については「東學」をご覧ください。
天道教の旗

東学(とうがく)は、朝鮮半島において1860年慶州出身の崔済愚が起こした新宗教。東学を信奉する者を東学教徒、その集団を東学党と呼ぶ。

また、第3代教祖孫秉煕からは、天道教(???, Cheondogyo)と呼ばれる。東学の本質は従来の思想である朱子学とも、西洋の新しい思想である西学(天主教)とも異なる朝鮮独自の思想体系を成すことを旨とした。
概要

朝鮮における開化期の思想は、興宣大院君と儒者達による衛正斥邪思想と、両班官僚と中人層の開化思想との対立であった。しかし、このふたつの思想は結局、政府側の対立構造であり、一般民衆に根を下ろした大衆的な運動にはならなかった。そうした中で、下からの改革を思想体系化したのが崔済愚(1824 - 1864)である。崔済愚は、慶尚北道慶州に生まれ、儒教仏教・民間信仰などを融合し、「東学」を創始した[1]。この名称には「西学」すなわちキリスト教に対抗する意図がこめられている[1]。崔済愚は、やがて理想的な「後天開闢」の時代が訪れるので、人びとは東学の信者となり、真心をこめて呪文を唱え、修養して霊符を飲めば天と人が一体となり、現世において神仙になると説いた[1]

「東学」が一般大衆に広がった理由のひとつは、その教理の単純なことによる。すなわち、儒学の修得が長い年月と相当の財力を必要とするのに比べて、東学において、その真理に達するための修養方法は、日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱えることであった[1]。東学教徒たちは天主(ハヌニム、「天の神」、朝鮮における古代からのシャーマニズムに由来する概念)を仰ぎ、天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説いた[2]。また、山中に祭壇を設けて天(ハヌル)を祭り、戦いに備えるため木剣を持って剣舞をならった。しかし、東学の教理は、革命ではなく、教化であり、東学党の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否した。東学は西学とも儒学とも異なる思想であったため、衛正斥邪派からも、開化派からも、排斥される。創始者の崔済愚は1863年、政府によって逮捕され、翌1864年大邱で処刑され、経典は燃やされた[1]全?準

第2代教祖の崔時亨が焼却された経典を暗誦して復元、『東経大全』(純漢文)、『龍潭遺詞』(純国文)が今に伝わっている。崔時亨は東学布教に力を注ぎ、東学は慶州から、三南地方慶尚道忠清道全羅道)、さらに江原道京畿道黄海道南部各地へと広がった[3]。東学党の組織は統率がきちんと行われていて、最下部を「包」とし、「包」を統括する「都接主」を置き、全東学教団を統率する道主がいた。また、教務を処理する執行機関として「教長」「教授」「都執」「執綱」「大正」「中正」という六任制度があった。1892年末、東学の幹部は創始者崔済愚の罪名を取り消させ、教団の合法化をはかる「教祖伸冤運動」に着手した[3]。東学教徒は忠清道の公州や全羅道の参礼で集会を開き、両道の観察使に教祖伸冤を要求した[3]。両観察使がこれを拒否したので1893年1月、東学党人士は景福宮の前で伏閣上疏をおこなったが、解散を命ぜられてこの運動は頓挫した[3]。このとき東学党の一部は各国公使館領事館キリスト教会などに「斥倭洋」をかかげた貼り紙を付してまわっている[3]。当時、東学は崔時亨の直接支配下にあり、宗教運動としての純化を目指す主流派の「北接」と、全羅道の地方幹部全?準が率い、社会・政治運動としての目標追求を目指す急進派の「南接」に分裂していた。

統率のとれた組織であった東学教団は、朝鮮政府からは厳しい取締りを受けることとなり、また、取締りと称した官吏の収奪が横行した。こうした官吏の虐政が1894年甲午農民戦争(東学党の乱)へ発展する火種となった。1893年3月、東学幹部は教団本部のあった忠清道報恩郡帳内に、2万名あまりの教徒を集め、「斥倭洋」を唱えるとともに、観察使や守令の虐政を非難した[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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