東大阪電気鉄道
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東大阪電気鉄道(ひがしおおさかでんきてつどう)は、かつて大阪府から奈良県一帯にまたがる鉄道路線の敷設を目論み設立された鉄道事業者五私鉄疑獄事件のうち2つの事件の舞台ともなり未開業に終わった。
目次

1 概要

1.1 電気鉄道ブーム

1.2 構想のいきさつ

1.3 計画の問題点と京阪の動向

1.4 免許交付

1.5 挫折


2 計画ルート

3 脚注

4 関連項目

概要
電気鉄道ブーム

明治時代から昭和初期にかけて、日本では「電鉄ブーム」として阪神電気鉄道京阪電気鉄道(以下京阪)などに始まり、新京阪鉄道阪和電気鉄道奈良電気鉄道(以下奈良電)、参宮急行電鉄などに至るまで、電気鉄道の敷設が流行した。

しかし、その中には未成線で終わったものや、計画そのものが泡沫的であり、元から実現性の低いものも多かった。この東大阪電気鉄道もその一つである。
構想のいきさつ

大阪京都奈良の一帯には、明治時代に今の東海道本線関西本線片町線奈良線となる路線(関西鉄道も参照)のほか、京阪による京阪本線が敷かれ、大正になると大阪電気軌道(以下大軌・近畿日本鉄道の前身)により現在の近鉄奈良線が完成していた。

そして大正中期になると、この地域にさらなる路線を敷設しようと免許を申請する事業者が続々と現れた。それは1919年に京阪子会社の新京阪鉄道が現在の阪急京都本線に当たる路線の免許を得た辺りから始まり、1922年には大軌が奈良線の北部の鉄道空白地帯を埋める形で天神橋四丁目?鷲尾(現・孔舎衛坂駅跡)間、1924年には阪神本線の延長という形で阪神電気鉄道が梅田?住ノ道?四條畷間、その翌年には南海鉄道系の畿内電鉄による天王寺?京都七条(国鉄京都駅付近)間の免許申請[1](1931年却下)[2]が出されるといった具合である。

そして1927年、現在の近鉄京都線を敷設した京阪と大軌の合弁会社である奈良電が大阪進出のために玉造?小倉?伏見間の免許を申請すると同時に、大阪の資本家が東大阪電気鉄道として森之宮?四条畷?奈良(下三条通) 間と逢阪(四條畷市)?宝山寺間の免許を申請したのである。
計画の問題点と京阪の動向

ところが、東大阪電気鉄道の計画ルートは、急峻な清滝峠を控えている(四条畷?逢阪間の約3kmで320mの高低差があり、単純計算でも100を超える)にもかかわらず、トンネルループ線スイッチバックなどの勾配緩和策も設けず越えようとしていたり、終点の奈良も地上線で市内に乗り入れようとしているなど、明らかに常識を逸脱した杜撰なもので、さらに片町線や大阪電気軌道の奈良線など既存路線とも並行することから、免許申請に大阪府が付けた付帯条件でも計画の杜撰さが指摘され、「却下の詮議を」という異例の厳しい反対意見が付けられていた。また発起人は鉄道事業に関して無知であり、一方において利権師と呼ばれていた田中元七[3]という人物であったため、この申請も周辺地域の利権確保を目的にしたものではないかと見られていた。

とにもかくにも、最終的に湘南電気鉄道によって路線が敷設された三浦半島の鉄道計画同様、この地域の鉄道計画は無秩序の状況に陥った。奈良電に至っては、株式を多数保有する大軌の競合線にあたる路線敷設免許を申請したため、同社から資金引き上げを要求される有様であった。しかし同社では、自社の申請している大阪延伸線より東大阪電気鉄道のほうが免許交付の見込みが高いとして、東大阪電気鉄道の過半数の株式収得と、四条畷?小倉?宇治間の、東大阪電気鉄道接続線の免許を申請すると言った行動もした。

また、京阪ではこれらの鉄道敷設計画は自社線の権益を脅かすものであるとして、当時国鉄の運営と私鉄の監督を行っていた鉄道省より、現在の京阪交野線を建設していた信貴生駒電鉄から分岐して、片町線の星田駅付近に至り、片町線の電化三線軌条を敷設する費用を京阪が負担し、京阪の電車が片町線に乗り入れるようにすれば、この地域における鉄道敷設免許申請はすべて排除するという提案が出されたことから、その案に乗ることとし、合意書を締結するまでに至っていた。


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