東大寺法華堂
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東大寺 > 東大寺法華堂法華堂伝・月光菩薩(がっこうぼさつ)像

東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)は、奈良県奈良市東大寺にある奈良時代(8世紀)建立の仏堂である。一般に三月堂(さんがつどう)として知られる。日本の国宝に指定されている。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する10体の仏像も奈良時代の作である。
概要

「三月堂」の通称で知られる法華堂は、東大寺境内東方の丘陵部に位置する、不空羂索観音立像を本尊とする仏堂である。東大寺は広大な境内を有するが、このうち法華堂が位置する東方丘陵部の一画を「上院」(じょういん)と称し、法華堂のほか、「お水取り」で知られる二月堂、東大寺開山の良弁の像を祀る開山堂など、多くの建物がある。この付近は大仏開眼(752年)以前から、東大寺の前身寺院があった場所で、法華堂はその主要堂宇の1つであった。

東大寺では、治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより、創建当時の建物の多くが失われた。東大寺に現存する奈良時代の建物としては(転害門、(てがいもん)と本坊経庫などの校倉(あぜくら)があるが、奈良時代建立の仏堂で現存するものは法華堂のみである。法華堂は奈良時代仏堂の数少ない現存例として貴重であり、安置される仏像群とともに天平盛期の文化を今日に伝えている。仏像群のなかでは本尊の不空羂索観音立像(ふくうけさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのんりゅうぞう)、執金剛神立像(しつこんごうしん/しゅこんごうしんりゅうぞう)などが著名である。

「法華堂」の名称、及び「三月堂」の通称の由来については、「毎年3月、この堂において法華会(ほっけえ)という行事が営まれるからである」と一般には説明されている。しかし、法華会の行事は平安時代後期の11世紀には法華堂ではなく講堂で行われるように変更されている。元和4年(1618年)からは再び法華堂で法華会が行われるようになったが、その実施時期も3月ではなく11月であった。そして、現在は法華会自体行われなくなっている[1]
創建

法華堂は、不空羂索観音を本尊とすることから、古くは「羂索堂」と称し、周囲の付属建物を含めて「羂索院」と称された。『東大寺要録』「諸院章」には、「羂索院」は天平5年(733年)、良弁が不空羂索観音を本尊として創建したものであると記されている。実際の創建時期については、かつては天平年間の後半(740年代)とされていたが、年輪年代調査の進展等により、『東大寺要録』のいう天平5年(733年)に近い頃の建立とする説もある[2]

正倉院に「東大寺山堺四至図」(とうだいじさんかいしいしず)という、東大寺の寺域を表した絵図があるが、これを見ると現法華堂の位置に「羂索堂」の存在が明記されており、絵図が作成された天平勝宝8歳(756年)の時点でこの堂が「羂索堂」と呼ばれ、東大寺の主要堂宇の1つであったことがわかる。法華堂(羂索堂)の正確な創建年次については研究者によって意見が異なるが、大仏開眼(天平勝宝4年・752年)にやや先立つ8世紀第2四半期の建立であり、東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ、きんしょうじ)に属した仏堂であって、本尊像も同じ頃の造立であるということは大筋で認められている。

東大寺境内東方の春日山麓には東大寺と関係の深い複数の寺院が存在した。前出の金鐘寺(金鐘山房)とは別に、光明皇后の発願で春日山西麓に建立された福寿寺という寺院の存在も知られている。金鐘寺の存在を示す史料としては、天平11年(739年)の正倉院文書(大日本古文書2 - 352)に「金鐘山房」とみえるのが古い例である。この金鐘山房の起源について、家永三郎は神亀5年(728年)に聖武天皇によって創建されたとする。家永は、『続日本紀』神亀5年11月3日条に「従四位下智努王(ちぬおう)を以って造山房司長官となす」とある記述に注目し、これは、同年9月に生後1年未満で死去した皇太子基王の追善のため、父の聖武天皇が「山房」を造らせたことを意味し、これが「金鐘山房」にあたると推論した。『東大寺要録』が引用する天平14年(742年)7月14日付けの太政官符には「金光明寺と称(い)う。本名金鐘寺」との記載があり、前年の天平13年に聖武天皇が発した国分寺・国分尼寺造立の詔を受けて、金鐘寺が大和国の国分寺(金光明寺)と位置付けられたことが窺われる。

金鐘山房(金鐘寺)・福寿寺・金光明寺の関係については諸説あり、金鐘寺の正確な位置、福寿寺との関係などの具体的実態については、いまだ不明の部分が多い。金鐘山房(金鐘寺)の位置については、出土瓦等から、東大寺二月堂の北方に位置する丸山西遺跡をそれにあてる説が有力視されている。一方、福寿寺は上院地区(二月堂、法華堂付近)にあり、これが「山房」と併せて金鐘寺と称されるようになり、天平14年頃には大和国の国分寺として金光明寺とも称されていた、というのが一般的な理解である。法華堂はこれらの前身寺院に属した仏堂であったと推定され、金光明寺の金堂であったとする説もある。[3]

昭和46年(1971年)から翌年にかけて、法華堂の屋根修理に際し、使用されている瓦を調査したところ、天平12年(740年)から同15年まで用いられた恭仁京所用瓦と同じ様式の、文字刻印入りの瓦が多数発見された[4]。これにより、法華堂の建立年代をこの時期に求める説がある。一方、正倉院に残る天平19年(747年)正月8日付の文書には、金光明寺造物所が「羂索菩薩」の「光柄及び花蕚」用に「鉄二十挺」を申請したことがみえる。この文書を最初に取り上げたのは美術史家の源豊宗で、彼はこの記述を法華堂本尊不空羂索観音像の光背と台座用の注文とみなし、天平19年(747年)には本尊像がなお制作中であったことの傍証であるとした[5]
建築正面(礼堂)、手前に重要文化財の石灯籠がある西側面

法華堂は東大寺大仏殿東方の丘陵地に、南を正面として建つ。平面規模は正面5間・奥行8間である。奥行8間のうち、後方の4間分が本尊をはじめとする諸仏を安置する正堂(しょうどう)、手前の2間分が礼堂(らいどう)であり、これらの中間の2間は両者をつなぐ「造り合い」と呼ばれる部分である。なお、ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す社寺建築用語である。正堂部分のみが奈良時代の建築で、礼堂は鎌倉時代に付加されたものであるが、正堂の部材に残る痕跡から、奈良時代にもすでに礼堂が存在していたことがわかり、当初は正堂と、別棟の礼堂が前後に並び建つ双堂(ならびどう)形式の仏堂であったと推定されている[注釈 1]

正堂は寄棟造、平入り。礼堂は入母屋造、妻入り。ともに本瓦葺きとする。組物は出組(一手先)。正堂の建立時期には諸説あるが、前述のようにおおむね天平年間の末期、8世紀半ばの建築と考えられている。現存する礼堂が付加された時期については、棟札の記載を根拠に正治元年(1199年)とする説と、大瓶束(たいへいづか)の刻銘をもとに文永元年(1264年)とする説があるが、いずれにしても礼堂部分は鎌倉時代の建立である。

大仏殿方面から坂道を上ってくると、法華堂の正面ではなく西側面が目に入る。写真集などで見かける法華堂の写真も西側面を撮影したものが多い。西側から見た場合、向かって左半分(北側)の4間分が奈良時代、右半分の4間分(南側)が鎌倉時代の建築である。右端から数えて4本目の柱の上には組物がなく、代わりに実用上は必要のない雨樋が入っている。これは、正堂と礼堂が本来別棟で、ここに雨樋があった名残である。北側の奈良時代の部分には長押(なげし)を用いているのに対し、南側の鎌倉時代の部分では長押より一段下がった位置に[注釈 2]が用いられている。奈良時代の部分と鎌倉時代の部分とでは、柱上の組物の形態にも時代様式の差がみられる。


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