東大寺正倉院
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この項目では、東大寺の正倉院について説明しています。一般的な正倉院については「正倉」をご覧ください。
正倉院正倉

正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫聖武天皇光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産文化遺産)に登録されている。


目次

1 概要

2 正倉院の語義

3 正倉院宝物

4 正倉院の代表的な宝物

5 正倉院文書

6 聖語蔵

7 建造物としての正倉院

7.1 修理

7.2 国宝指定の経緯

7.3 西の正倉院


8 正倉院展

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク


概要

元は東大寺正倉倉庫)だったが、1875年明治8年)3月10日、収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、東大寺から内務省の管理下に置かれた。1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年(明治17年)5月に宮内省所管となった。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主管となり、第二次世界大戦後の1947年昭和22年)5月3日に宮内府図書寮の主管となった。現在は宮内庁施設等機関である正倉院事務所が正倉院宝庫および正倉院宝物を管理している。

正倉院の宝物には日本製品のみならず、中国)や西域ペルシャなどからの輸入品[1]を含めた絵画書跡・金工・漆工木工刀剣陶器ガラス器楽器仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫である。シルクロードの東の終点ともいわれる。
正倉院の語義

奈良時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。「正倉」とは、元来「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものだった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する正倉があり、正倉のある一画をで囲ったものを「正倉院」と称した。南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在したが、歳月の経過で廃絶して東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化した。

なお、現代においては、「正倉院」は貴重な文化財の宝庫である事を指す比喩表現としても使われることがあり、例えば春日大社は「平安の正倉院」[2][3]、国宝の平城宮跡出土木簡は「地下の正倉院」と呼称されることがある[4]
正倉院宝物献物帳 国家珍宝帳 冒頭

756年天平勝宝8歳)6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏大仏)に奉献したのが始まりである。光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められた。献納品目録である献物帳も正倉院に保管されている。献物帳は五巻からなり、それぞれ『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『?風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡?風帳』と通称されている。

正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分される。

北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年天暦4年)、東大寺羂索院(けんざくいん)の双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められており、1185年文治元年)の後白河法皇による大仏再興の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることが度々あり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。上述のような倉ごとの品物の区分は明治以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。

「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。また大仏開眼の際に聖武天皇光明皇后が着用した冠など、何らかの事情で破損した宝物も存在するが、その破片が所蔵されている場合もある(礼服御冠残欠などの残欠)[5]。また、一部の唐櫃は鎌倉時代、江戸時代のものであり、宝物の中にも後世に追納されたものが多いという説がある[6]

国家珍宝帳に記された献納品には後の時代に持ちだされたことを示す除物の付箋が付けられたものが7点(封箱、犀角?、陽宝劔、陰宝劔、横刀、黒作懸佩刀、挂甲)ある。このうち光明皇后が死去する半年前の天平宝字3年(759年)12月に出蔵された陽宝劔と陰宝劔は、献物帳にある大刀100口の筆頭に記されていたが、その後の行方は判明していなかった。1907年(明治40年)から翌年にかけて東大寺金堂(大仏殿)盧舎那仏須弥壇の周辺から大刀6口、水晶玉、挂甲残欠などが発見され「東大寺金堂鎮壇具」として国宝に指定されている。2010年に元興寺文化財研究所がこのうち金銀荘大刀2口のX線撮影をおこなったところ、刀身から「陽劔」「陰劔」の象嵌銘が発見され、国家珍宝帳に記されていた陽宝劔と陰宝劔であることが確認された[7]。専門家の間では光明皇后が国家の平安を願って埋納したものであると考えられている。陽宝劔と陰宝劔は東大寺ミュージアムに保管されている。

正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の扉の開封には勅使天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降であるが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺別当らの寺僧組織が管理する)に改められた。1875年(明治8年)、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。


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