東大寺の仏像
[Wikipedia|▼Menu]
銅造廬舎那仏坐像(奈良の大仏)

本項東大寺の仏像(とうだいじのぶつぞう)では、奈良県奈良市にある聖武天皇ゆかりの寺院・東大寺に伝来する仏像について説明する。

8世紀に日本の首都であった奈良を代表する寺院である東大寺は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。東大寺には、「奈良の大仏」として知られる、高さ約15メートルの盧舎那仏(るしゃなぶつ)像をはじめ、日本仏教美術史を代表する著名作品が多く所蔵されている。

本項では東大寺に所在する仏像彫刻について概観する。なお、東大寺の概要については「東大寺」の項を、大仏については「東大寺盧舎那仏像」の項を参照のこと。
凡例

本項では東大寺所在の、「彫刻」部門の
国宝重要文化財指定物件を取り上げた。

仏像関係の専門用語については、文中に逐一注記すると煩雑になるため、「用語解説」の節でまとめて説明する。

各仏像の像高は『奈良六大寺大観』(岩波書店)による。ただし、『奈良六大寺大観』と他の文献とで像高に顕著な差異がある場合は、その旨注記する。

国宝・重要文化財の指定年月日については、末尾の一覧表にまとめた。

概要

東大寺は、8世紀聖武天皇の発願で造立された盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)、いわゆる「奈良の大仏」を本尊とする寺院である。仏教による国家鎮護を願った聖武は、天平15年(743年)10月15日に「盧舎那仏造立の詔」を発した。大仏は当初近江国紫香楽(現・滋賀県甲賀市)で造り始められたが、計画を変更し、2年後の天平17年(745年)から大和国添上郡山金里(現・東大寺の所在地)であらためて大仏造立が始められた。大仏開眼供養が行われたのは天平勝宝4年(752年)4月9日のことである。国力を結集して造立した大仏は、治承4年(1180年)の平重衡南都焼討永禄10年(1567年)の三好・松永の兵火で罹災し、その都度復興された。現存する大仏は上記の2度の兵火で甚大な被害を受けており、奈良時代のオリジナルは脚部や台座などのごく一部に残るのみで、その他の大部分は中世および近世の補作である。大仏を安置する金堂(大仏殿)は、18世紀の再建であるが、伝統工法による木造建築としては世界最大級のものである[1][2]

大仏殿の東方の若草山麓には、法華堂(三月堂)、「お水取り」で著名な二月堂などの堂宇があり、これらの堂宇が建つ地区を上院(じょういん)と称する。法華堂は、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の兵火をまぬがれて現存する奈良時代建立の仏堂であり、本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん、ふくうけんじゃくかんのん)像をはじめとする奈良時代の仏像群を安置している。この上院地区には東大寺の前身寺院である金光明寺があった。また、金光明寺のさらに前身の寺院として、「金鐘寺」(こんしゅじ、きんしょうじ)と「福寿寺」が存在したことが史料からわかっている。これら前身寺院はいずれも大仏殿東方の山麓にあったとみられるが、正確な所在地については諸説ある。また、法華堂の建立年次、法華堂本尊の不空羂索観音像の造立年次については、8世紀の第2四半期頃と見る点では異論がないが、正確な年次については諸説があり確定していない[3]

治承4年(1180年)の兵火の翌年にあたる養和元年(1181年)、当時61歳の俊乗房重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)が東大寺復興の大勧進(総責任者)に任命された。同人の尽力により、兵火で罹災した大仏と大仏殿、中門、南大門が復興された。また、大仏の両脇侍像、大仏殿の四隅に安置された四天王像、中門の二天像、南大門の仁王像などの仏像群が、運慶快慶ら、いわゆる慶派の仏師たちによって造立された。なお、大仏殿と中門は永禄10年(1567年)の兵火で再度焼けており、上述の鎌倉時代復興の仏像群のうち、現存するのは南大門の仁王像のみである[4]
大仏詳細は「東大寺盧舎那仏像」を参照銅造廬舎那仏坐像(奈良の大仏)

国宝。奈良?江戸時代。像高14.73メートル。国宝指定名称は「銅造盧舎那仏坐像」。一般に「奈良の大仏」として知られる東大寺の本尊像で、鋳銅製である。奈良時代に聖武天皇の発願で造立され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。ただし、現存する大仏は、脚部や台座蓮弁などの一部に奈良時代のオリジナルが残ってはいるが、頭部は江戸時代の、体部の大部分は鎌倉・室町時代の補鋳である。本像は、『華厳経』に説く、盧舎那仏(るしゃなぶつ)という名の仏である。盧舎那仏は「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ)とも表記し、サンスクリットの「ヴァイローチャナ」(「あまねく照らす」の意)の音訳である。『華厳経』に説く「蓮華蔵世界」という広大無辺の世界の教主であり、宇宙の真理そのものを表す仏とされている[5]

続日本紀』によれば、聖武は天平12年(740年)2月、河内国大県郡(現・大阪府柏原市[6])の知識寺で盧舎那仏の像を拝した。このことが機縁となり、聖武は自らも盧舎那仏像を造立することを発願した[5]。聖武と光明皇后の皇子である基王(もといおう)は神亀5年(728年)、生後1年足らずで夭折した。その後も天皇周辺では長屋王の変(神亀6年・729年)、疫病による藤原四兄弟の相次ぐ死(天平9年・737年)、藤原広嗣の乱(天平12年・740年)など、不穏な出来事が相次いだ[7]。こうした時代背景で聖武は仏教に深く帰依し、仏教による国家鎮護のため、天平13年(741年)2月14日に「国分寺建立の詔」、天平15年(743年)10月15日に「盧舎那仏造立の詔」を相次いで発した[8]行基を勧進(責任者)に任じて大仏造立の工事が始まったが、当初、大仏は奈良の東大寺ではなく、当時天皇の離宮があった近江国紫香楽(現・滋賀県甲賀市)の甲賀寺に造られる予定であった[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:163 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef