東大一直線
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この項目では、小林よしのりの漫画作品について説明しています。TBSのテレビドラマについては「中卒・東大一直線 もう高校はいらない!」をご覧ください。

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出典検索?: "東大一直線" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2009年4月)

東大一直線
ジャンルギャグ漫画
漫画:東大一直線
作者作画:小林よしのり
出版社集英社

その他の出版社
徳間書店
小学館

掲載誌週刊少年ジャンプ
レーベルジャンプ・コミックス
発表号1976年28号 - 1979年45号
巻数全13巻(ジャンプ・コミックス)
漫画:東大快進撃
作者作画:小林よしのり
出版社集英社

その他の出版社
徳間書店
小学館

掲載誌週刊ヤングジャンプ
レーベルヤングジャンプ・コミックス
発表号1980年7号 - 1981年25号
巻数全3巻(ヤングジャンプ・コミックス)
テンプレート - ノート

『東大一直線』(とうだいいっちょくせん)は、小林よしのりによる日本ギャグ漫画週刊少年ジャンプ集英社)にて1976年28号から1979年45号まで連載された。

本項では本作品の続編である『東大快進撃』(とうだいかいしんげき)についても記述する。
概要

小林の初連載作品であり、受験競争が叫ばれた当時の世相が反映されている。このとき既に小林の憂国の想いがマンガの中でシニカルに捉えられている。後にJICC出版社(宝島社の前身)「いきなり最終回」用のアンケートにとられた「印象に残っている最終回」のベスト10にも入っている。

タイトルは『柔道一直線』のもじり。小林のデビュー作は赤塚賞に応募し落選した『ああ勉強一直線』(1975年51号)である。その後赤塚賞佳作作品『男のトラ子 女の虎造』(1976年掲載号不明、手塚賞も佳作だったがこちらは未掲載)の掲載をはさみ、2作目『めざせ東大!』(1976年掲載号不明)3作目『ああ東大一直線』(同年22号)と異なる題名で掲載され、4作目から『東大一直線』として同年28号から1979年46号まで連載された。単行本では1作目から順番に収録されている。

続編として『東大快進撃』(『ヤングジャンプ1980年7号 - 1981年25号連載)が存在するほか、いくつか読切の番外編や続編作品も存在する。これらはおおむね連続した物語の作品であり、当記事ではこれらすべての作品を扱う。

小林のデビュー直前から「快進撃」までの経緯についてもここに記述する。以下、主人公の名前は「東大通」、作品名は「一直線」、学校名は「東京大学」と表記する。
登場人物詳細は「東大一直線と東大快進撃の登場人物」を参照
東大一直線
投稿から連載開始まで

大学在学中の1975年、『ああ勉強一直線』が『週刊少年ジャンプ』第3回赤塚賞に最終選考で残り、結局落選したが、編集部から載せたいという電話がありデビューを果たす。しかし中学時代から漫画家一直線だったとはいえ、ペンの勉強を全くしておらず、デビュー同期で親友の秋本治は「絶対左手で描いていると思った」と語っている。小林を見つけたのはジャンプ編集部の中野和雄で、『一直線』にも脇役で時々登場している。

同作の読切も2作目・3作目と掲載される中、1976年に第11回手塚賞佳作(『獣村より』)および第4回赤塚賞佳作(『男のトラ子 女の虎造』)が同時受賞。これらの実績を見て、『週刊少年ジャンプ』を400万部に押し上げた功労者の西村繁男副編集長(当時は実質的に編集長)が福岡までやって来て、連載の話を持ちかけた。実は西村は簡単に10週打ち切りになると思っていたが、個性・才能・将来性があれば、どんなヘタウマでも採用するのが、当時から続くジャンプの方針だった。そして『一直線』を連載開始する。
中学編あらすじ

お灘中学校に転校して来た東大通は「前の学校では800点で一番だった」などとガリ勉ぶりをチラつかせ、半田(現役)は受験勉強のライバルと警戒。放課後、ゆう子の家について行った東大通はどう見てもアホで変態にしか見えない。そして試験の結果発表時、東大通は「総得点1点で成績800位」を「800点で一番」だと勘違していたことに半田とゆう子は気付く。
連載初期

ある時「連載が予定の10回で終了したら、どげんするとです?」と聞いた所、担当編集の堀内丸恵(彼も小林の初期の漫画に時々登場する)はバツが悪そうに「そりゃあ…同じくらい面白い漫画、また作るしかないんじゃないかな」と答えた。世間知らずの小林は、漫画家が終身雇用制だと思っていたのだが、「連載が打ち切られたら失業」という事実を知った親戚が連日かわるがわる押しかけ「漫画家なんて馬鹿なことやめっとよ!」と大合唱されることとなり、背水の陣でムキになって熱筆。結局『一直線』は大ヒットし、流行漫画家となった。難のあった画力も週刊連載開始から2ヶ月ほどで、当時のギャグ漫画家としては標準レベルとなった。

デビュー当時はカラーページを描く際に使用する、耐水インクの存在を知らなかった。『一直線』連載当時、カラーページを描く時はまず墨汁でペン入れをし、その後ペン入れした線が滲まないよう、神経を研ぎ澄まして絵の具で着色していた(小林曰く「前衛的な手法」)。そのためカラーページを描くのを嫌がり、同時期他の連載作家がカラーページで掲載していたのを見て「どうやってインクをにじませずに描いているのだろう?」としきりに思っていた。スクリーントーンも、他の作家がトーンを貼る前の、指定を記したものしか見たことが無かったので、指定だけ書けば印刷されると思っており、ある時編集者から「先生!ちゃんと貼って下さいよ」と泣きつかれたことで、初めて知ったと言う。

当時の小林は、髪がセミロングサングラスの入った大き目の眼鏡をかけ、キャッチフレーズ?は「漫画界のさだまさし」。しかしギャグ漫画の死線の中、ただでさえやせていた頬がもっとやせ、井上ひさしみたいと言われたのは、たまらなかったと語っている。
高校編あらすじ


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