東坊城家
.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}梅鉢(うめばち)
本姓菅原氏高辻庶流五条庶流
家祖東坊城茂長
東坊城家(ひがしぼうじょうけ)は、五条長経(正二位・参議・刑部卿、1242年 - 1315年)の次男東坊城茂長(正三位・参議・治部卿、1284年 - 1343年)を祖とする堂上家である。ただし、茂長の時代には「坊城」と称し、孫の秀長・言長兄弟の時代に分立して「東坊城」「西坊城」と称したことから、秀長をもって祖をする考え方もある。西坊城家は江戸時代に2度目の絶家を迎えた[1]が、その後も東坊城家では「坊城」「東坊城」の家名が併用されていた[2]。目次 家格は、半家である。極官は室町時代の東坊城益長(1407年 - 1474年)以降、代々文章博士・大学頭・少納言・大蔵卿等を経て権大納言を極官とする。 家業は紀伝道で、代々天皇の侍読を務めた。歴代当主の中には漢学の才を認められ、改元の際の新年号の候補およびその出典を記した「年号勘文」の提出者となった者も多い。 東坊城家は高辻家から見ると、本来ならば庶流扱いである。しかし、東坊城家の女子からは勾当内侍(掌侍(ないしのじょう)の筆頭)を多く輩出し、同家からは氏長者も出した実績がある。更に、幕末の東坊城聡長(正二位・権大納言、1799年 - 1861年)は武家伝奏に任じられている。 その実績もあって、江戸時代の家禄は菅原氏出身の堂上家では最高の300石であった。 明治維新後は華族令施行により、徳長に子爵の爵位が与えられた。 大学頭東坊城任長 徳長は1911年に引退し、爵位を長子政長
1 概要
2 明治以降
3 系図
4 幕末の領地
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
概要
明治以降
同家のもともとの居所は「西院参町」(京都市上京区)、菩提寺(本墓所)は京都・上京区の浄福寺である。戦後、東坊城家名の五輪塔を徳長の三女英子(入江たか子)が1962年に多磨霊園に建立している[4]。女優を引退した英子が1959年に東京・銀座でバーを始めた[3]3年後のことであった。 五条長経 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の東坊城家領は以下の通り。(2村・301石)
系図 東坊城家(西坊城家)
実線は実子、点線(縦)は養子。
東坊城茂長
長尚長綱
秀長〔西坊城家〕
西坊城言長
長遠長瀬長政
益長惟長顕長
長清長光
和長定雄
長標平松資胤長淳唐橋在忠
盛長[5]
長維[6]
恒長承長高辻豊長至長
長基長祐長詮高辻長量
資長
綱忠資善
輝長
益良[7]
尚長
聡長[8]
夏長任長唐橋在綱
任長橋本夏子
徳長
政長細川敏子光長恭長英子
(入江たか子)元長
元長
幕末の領地
山城国愛宕郡田中村のうち - 76石
山城国乙訓郡鶏冠井村のうち - 225石