東南アジア条約機構
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東南アジア条約機構東南アジア条約機構
Southeast Asia Treaty Organization
SEATOの旗
1966年10月フィリピンマニラで行われたSEATO会議に出席した南ベトナム首相、オーストラリアのホルト首相、韓国大統領、フィリピンのマルコス大統領、ニュージーランドのホロヨーク首相、南ベトナムのチュー大将、タイのキティカチョーン首相、アメリカのジョンソン大統領(左から)
SEATO加盟国。西から順にの各国。
略称SEATO
愛称セアトー
設立1954年9月8日
設立者

アメリカ合衆国

イギリス

フランス

パキスタン

タイ

フィリピン

オーストラリア

ニュージーランド

解散1977年6月30日
種類集団安全保障
法的地位軍事同盟
目的反共
本部バンコク
会員数8ヶ国
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東南アジア条約機構(とうなんアジアじょうやくきこう、英語: Southeast Asia Treaty Organization, SEATO)とは、アメリカイギリスフランスパキスタンタイフィリピンオーストラリアニュージーランドの8ヵ国によって1954年9月8日に結成され1977年6月30日に解散した、西側諸国反共軍事同盟である。

なお、略称の「SEATO」は、日本では「セアトー」または「シアトー」と読むが、英語圏では主に「シートー」などと読む。
背景

太平洋地域では1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、その前後で米比相互防衛条約、旧日米安全保障条約ANZUS条約が署名され、米国を中心とする同盟システムの原型ができた[1]。しかし、イギリス、特に保守党内はANZUSに参加できなかったことに不満があり、イギリス政府で(1)ANZUSへの参加、(2)イギリス、オーストラリア、ニュージーランド間の地域的軍事取り決め(the Australia,New Zealand and Malaya Region: ANZAM)、(3)英国案の太平洋条約、(4) 5カ国軍事参謀機構(Five Powers Staff Agency: FPSA)が検討されたが、いずれも太平洋地域における中心的機関の構築が必要と考えられていた[1]

一方、アメリカのトルーマン政権は東南アジア地域について植民地宗主国であるイギリスやフランスが責任を持つべきであるとし、同地域への介入には消極的だった[1]。しかし、1954年3月のインドシナ危機でのフランス軍の危機的な状況がワシントンに報告されると、アイゼンハワー政権はインドシナ問題により積極的に対応するようになった[1]

1954年3月からのディエンビエンフーの戦いをめぐるインドシナ危機において、アメリカ政府はこの問題に対処するため共同行動や地域グループを提案した[1]。この提案に対し、イギリス政府は当時のイギリス領マラヤイギリス領香港の防衛を重視しており、マラヤの北方に緩衝地帯を設ける考えのもと、インドシナ地域への地上兵力の投入には反対していた[1]。またイギリス政府は和平のため交渉が行われるジュネーヴ会議を目前にした地域グループ(地域機構)の性急な設立には慎重で、設立するならばジュネーヴ会議を妨げない形での恒常的な集団防衛の地域機構とすることを考えていた[1]。しかし、当初、アイゼンハワー政権はディエンビエンフーの陥落を防ぐための条件付きの軍事行動を共同行動と考えており、その後もジュネーヴ会議でのフランスの立場を強化するための共同グループを想定していた[1]

フランスからのベトナム独立(独立前は仏印)後、冷戦時代の西側諸国の盟主であったアメリカでは「一つの国が赤化すると、その周辺諸国も赤化する」という所謂「ドミノ理論」が唱えられるようになっていた。
成立マニラで開催されたSEATO首脳会議

1954年9月8日、東南アジア集団防衛条約(Southeast Asia CollectiveDefense Treaty、通称マニラ条約)がアメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、パキスタン(分離前のバングラデシュを含む)の8カ国により調印され、東南アジア条約機構(Southeast Asia Treaty Organization: SEATO)に発展した[1]

イギリスはイギリス領マラヤの防衛を主眼としておりシンガポールに本部を置くよう主張したが、本部はタイの首都・バンコクに設置された[1]。機構の意思決定に関しては加盟国の全会一致の行動原則によっていた[2]

ただし、北大西洋条約機構(NATO)とは本質的に違いがあり、統合司令組織はなく加盟国の軍隊も統合されなかった[1]。イギリス連邦内では1953年10月のメルボルンでの会談で、オーストラリアとニュージーランドの防衛負担を軽減し、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの3国からなる英連邦極東戦略予備軍の設立が合意され、マニラ条約の調印とともに実施に移された[1]。イギリスはアメリカからの最高司令官の任命と米軍の常駐を期待していた[1]。しかしアイゼンハワー政権では安全保障と財政の両立を図るニュールック(New Look)政策が進められており、インドシナ、台湾海峡、朝鮮半島の3つの地域すべてに軍を駐留させることは困難とされた[1]。設立直前の1954年の8月時点でも米国統合参謀本部(JCS)はSEATOを集団防衛同盟に発展させることには消極的で、ANZUSやSEATO、北東アジアの諸国の軍事力を強化した上での集団防衛同盟を提唱していた[1]。結局、英連邦極東戦略予備軍がSEATOに組み入れられることもなかった[1]

また、NATOでは同盟国が武力攻撃を受けた場合には即座に集団防衛を発動することになっているが、SEATOでは武力攻撃に対して加盟国は憲法上の手続に従って共通の危険に対処するため行動するとされ(マニラ条約第4条1項)、武力攻撃以外の方法による危険に対しても共同防衛の措置について協議するとされていた(同2項)[3]


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