東北熊襲発言(とうほくくまそはつげん)は、大阪商工会議所会頭だった佐治敬三(当時サントリー[1]社長)が起こした舌禍事件である。 1988年(昭和63年)2月28日、TBS系列『JNN報道特集』で、東京からの首都機能移転問題が扱われた[2]。 この中で佐治が以下の発言を行った。仙台遷都など阿呆なことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い。 ? サントリー社長 佐治敬三、JNN報道特集 1988年2月28日 この発言が原因で、サントリーに対し東北地方[注釈 1]での不買運動が起こることになった[3]。 熊襲(くまそ)とは、古代の日本において九州南部にいた、朝廷に服属しない勢力を指す名称である[注釈 2]。東北地方の反朝廷勢力は蝦夷(えみし)と呼ばれていた。いずれの呼称も、畿内(近畿一円)の立場から征伐される対象として、史書にたびたび登場する[4]。 当時は首都機能移転の議論が行われていた時期の一つであり、仙台市を含む南東北3県(宮城県・山形県・福島県)では誘致活動に熱心であった。同じく近畿地方でも新首都誘致の活動が盛り上がっており、にわかに郷土主義 サントリーは本発言以前から美術館やコンサートホールなどを運営するなど、企業メセナに多くの資金を投じ、文化的な企業としての在り方を標榜してきた。こうした文化貢献はオーナー一族出身の社長である佐治の意思で行われていたにもかかわらず、その当人から発せられた特定の地域・文化・民族に対する中傷は矛盾した行為として非難の対象になった。そもそもサントリー自体が日本を代表する大企業の一つであり社会的な影響が大きいことも、発言が重く受け止められる理由になった。 名指しで中傷された仙台市では、サントリー仙台支店に300本以上の抗議電話が殺到し対応に追われた。まれに励ましの電話を受けた時、女性社員が感動して涙したと朝日新聞が報道している[6]。このほか、秋田県では当時の佐々木喜久治知事の指示で、秋田県共済組合の保養・宿泊施設におけるサントリー製品の仕入れが停止される事態となった[7]。 一方、青森県では野辺地町でサントリーの原酒工場の計画が進んでおり、大分県・熊本県との間で誘致を競っていた。北村正哉知事は表立った批判を避けるなど配慮を示し、また地元も工場設置を望む声が引き続き強いなど、東北各県で対応が分かれた[8]。抗議運動に温度差があることについて週刊新潮は「怒ったフリする東北」と題した記事を掲載している[9]。 1988年3月9日、衆議院予算委員会で沢藤礼次郎衆議院議員(岩手県出身、旧岩手2区選出)は「ここまで言われたのでは東北人のプライドといいますか、大変傷つくのも無理がないわけであります」と発言を批判[10]。一方、奥野誠亮国土庁長官(奈良県出身、奈良3区選出)は「首都を自分のところへ持っていきたい、その熱望の余りに口が滑ったというふうに受けとめたい」と冷静に受け止める答弁を行った[10]。 九州では、熊襲と関係する地域が九州南部の一部であり、また「熊襲」という用語自体が千数百年前の現地部族の呼称であり(東北の「蝦夷」も同様)、当事者意識はあまり抱かれず、東北地方と異なりほとんど抗議運動は起こらなかった。青森県とサントリーの工場誘致を競っていた大分県では、地元の経済団体が1988年7月14日に佐治を招いた講演会を開き、歓迎ムード一色であったという[11]。その大分県・青森県と誘致を競っていた熊本県の細川護熙知事(のちの内閣総理大臣)も、発言に言及しなかった[12]。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また、東北地方の全放送局がこの発言を受けてCMの出稿を差し止める事態となり、当時サントリーがスポンサーであった全国ネットの番組(『月9ドラマ』、『火曜サスペンス劇場』、『笑点』、『日曜洋画劇場』など)では東北地方の各ネット局側でサントリーを表示から抜いた提供クレジットに、CM枠は自社の番宣や公共広告機構(現・ACジャパン)にそれぞれ差し替えた。
概要
発端
背景
抗議