東北工程
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高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と金(後の満州族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。

東北工程(とうほくこうてい)とは、中華人民共和国国家プロジェクトの一つである。

正式名称は「東北辺疆歴史与現状系列研究工程(簡体字: ?北?疆?史与?状系列研究工程)」。中国東北部(旧満洲)の歴史研究を目的とするプロジェクトで、1997年から開始され、2000年以後に研究成果が中国国外のメディアにも公表されるようになった。

韓国メディア聯合ニュース』は、東北工程を「古代朝鮮の古朝鮮高句麗渤海は、中国属国であるという中国の大規模歴史歪曲プロジェクト」と定義している[1]高句麗百済渤海新羅も含まれることがある)を中国史の地方政権とした扱いに対して、韓国国内で激しい抗議が発生し、2006年には中韓間の外交問題に発展した。結果的に「学術討論で解決していき、政治問題としない」との合意で政府レベルではひとまず沈静化しているが[2]韓国メディアが「潜伏状態」[3]と表現する通り、民間レベルや歴史教育の分野ではしばしば問題となり、両国間の潜在的な懸案となっている。
概要

言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗とでは、民族的・言語的に隔たりがあり[4]、高句麗、及び高句麗の王族が建国した百済を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がなく、満州族のルーツである女真族と高句麗のルーツは同じツングース民族とされ[5]、高句麗の故地を領土に含み、高句麗と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国と韓国との間に軋轢が生じている。

高句麗を建国した朱蒙生母は、中国英雄河伯の娘である柳花夫人であり、朱蒙が中国人の血を引いていることは議論の余地がない[6][7][8]。高句麗を建国した朱蒙父親解慕漱[9]藁離国人であり、内藤湖南は、?離国は、松花江支流に居住していたダウール族と指摘している[10]。壬戌五十七年,四月八日,解慕漱降于熊心山,起兵,其先?離國人也。癸亥五十八年,…遂棄位入山,修道登仙。於是五加共治國事六年。先是,宗室大解慕漱密與須臾約,襲據故都白岳山,稱爲天王カ,四境之?,皆爲聽命。於是封諸將,陞須臾侯箕丕爲番朝鮮王,往守上下雲障,蓋北夫餘之興始此。而高句麗乃解慕漱之生ク也,故亦稱高句麗也。 ? 桓檀古記.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。桓檀古記/檀君世紀#四十七世檀君古列加

三国史記』高句麗本紀・広開土王紀・百済本紀・義慈王紀によると、高句麗王たちは、中国黄帝の孫の高陽氏、中国黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた[11][12][13][14][15]

逸周書』「王会解」は、古代中国少数民族とその分布について述べたものであり、の孔晁による注がつけられているが、「高夷」について「高夷東北夷高句麗」と注しており、高句麗を高夷族の子孫としている。このことから中国学界は、高句麗の先祖である高夷族と高陽氏を接続させ、高夷族の起源を高陽氏に確定、「卵生神話、鳥羽冠(鳥の羽で飾られた帽子 )の風習、鬼神(英語版)思想などが共通している」として、高句麗を高陽氏の子孫と主張する[16]。中国学界はもう一つの証拠として『晋書』「慕容雲載記」を挙げており、慕容雲祖父である高和は高句麗族であるが、高陽氏の末裔であるため高姓を名乗り、慕容雲の本来の名前は「高雲」という記事である。中国学界は、「高陽氏→高夷族→高句麗族」と連結させ、高句麗の祖先は高夷族であり、さらに遡ると高陽氏とみている[16]

三国史記』では高句麗王系について、本紀の始祖王の記載の最初に高句麗では「始祖東明聖王姓高氏。諱朱蒙」と書かれ、王系の姓を明記しているが、高句麗王に対しては始祖王にのみ姓「高」が書かれている。高句麗王の姓「高」は『三国史記』の始祖条と『三国遺事』の王暦と『三国遺事』紀異第一「高句麗」条で書かれているが、『三国遺事』「高句麗」条がもっとも詳しく、「国号高句麗。因以高為氏。本姓解。今日言是天帝子。承日光而也。今自生。故自以高為代。」と記しており、三品彰英は「高句麗の高をとって氏としたというが、句麗王が高氏を称したとする初見は『宋書』高句麗伝に『高句麗王高l。晋安帝義熙九年』とある高l(長寿王)である。広開土王(長寿王の父)一七年条に『春三月。遣使北燕。且叙宗族。北燕王雲遣侍御史李抜報之。雲祖父高和句麗之支。自云高陽氏之苗裔。故以高為氏焉』とあり、『三国史記』高句麗本紀のこの記事は『資治通鑑』より引用しているのである。すなわち高句麗王が高氏を称したのは北燕王の高氏に由来するもので、高句麗の高をとったものではない」と述べている[17]

三国史記』巻三十二「唐書云,高句麗俗多淫祠,祀靈星及日箕子可汗等神。[18]」『旧唐書』高麗伝「其俗多淫祀,事靈星神,日神,可汗神,箕子神。[19]」『旧唐書』高麗伝「食用?豆,??,尊俎,罍洗,頗有箕子之遺風。[20]」『新唐書』高麗伝「俗多淫祠,禮靈星及日,箕子,可汗等神。[21]」とあり、高句麗王は、朝鮮征服して箕子朝鮮を建国した中国殷王朝政治家である中国人箕子の子孫を称し、箕子を祖先として崇め、箕子の継承者であると主張していた。そのため、高句麗王は、箕子の祠廟を建て、崇拝し、四季を通じて祭祀をおこなっていた。???(大鐘言語研究所所長)は、高句麗は箕子を高句麗の始祖、朝鮮の祖先と認識していた、と指摘している[22]

百済の始祖の温祚生母中国人である。『三国史記』には、百済の始祖の温祚の父は、高句麗の始祖の鄒牟あるいは朱蒙とある[23]。『三国史記』に、朱蒙が卒本夫余に至った際に越郡の娘を得て二子をもうけたとする記載がある[24]。或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」 ? 三国史記、巻二十三中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國史記/卷23#温祚王

「二子」とは、百済の始祖となる温祚沸流のことであり、井上秀雄は「越郡」を「中国浙江省紹興地方か」と注記している[24]


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