東伏見宮依仁親王
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東伏見宮依仁親王
東伏見宮

続柄

伏見宮邦家親王第17王子

崇光天皇男系15世孫

霊元天皇女系6世孫


身位親王
敬称殿下
出生1867年10月16日
日本京都
死去 (1922-06-27) 1922年6月27日(54歳没)
日本東京府東京市
配偶者八重子(土佐藩山内豊信三女、離婚)
 周子公爵岩倉具定長女)
父親伏見宮邦家親王
母親女房伊丹吉子
栄典 大勲位菊花章頸飾
役職 元帥海軍大将
軍事参議官
将官会議議員
社団法人帝国水難救済会総裁
横須賀鎮守府司令長官
第二艦隊司令長官
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東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう、1867年10月16日慶応3年9月19日〉 - 1922年大正11年〉6月27日)は、日本皇族海軍軍人[1]伏見宮邦家親王第17王子。官位は元帥海軍大将大勲位功三級。妃は土佐藩山内豊信三女の八重子、次いで岩倉具定公爵長女周子(かねこ)
生涯

初め名を定麿王という。1868年(慶応4年)2月、円満院門跡の相続が内定する。ただし、明治維新により、実現しなかった。1869年明治2年)2月、兄宮・山階宮晃親王の養子となる。1877年3月、海軍兵学校に予科生として入学する。1884年4月、海軍兵学校を中退し、イギリス留学のために出発する。1885年12月に小松宮彰仁親王の養子となり、1886年5月に親王宣下を受け[注釈 1]明治天皇猶子となり名を依仁と改める。1887年(明治20年)7月、イギリスからフランスに移り、ブレスト海軍兵学校に入学する。1890年7月にブレスト海軍兵学校を卒業し、8月に海軍少尉に任官する。1892年2月、帰国する。以後は海軍軍人として生涯を歩む。1903年(明治36年)1月、小松宮彰仁親王の願い出により、新たに東伏見宮を創設した[注釈 2]。彰仁親王とは生前折り合いが悪かったようである。日露戦争では巡洋艦「千歳」副長、同「千代田」艦長として参戦した。1911年の英国ジョージ5世の戴冠式に東郷平八郎乃木希典を随員として参列した[2]ほか、大日本水産会総裁、日仏協会名誉総裁などを歴任する。横須賀鎮守府司令長官、第二艦隊司令長官を歴任し、1918年大正7年)7月、海軍大将に進む。1922年(大正11年)、56歳で薨去。薨去に際し大勲位菊花章頸飾と元帥の称号を賜った。親王には継嗣が無く、東伏見宮は一代で廃絶となった。なお、晩年の依仁親王は久邇宮邦彦王の三男邦英王を養子のようにしており、東伏見宮家の祭祀を継がせた。
年表「千歳」副長としての記念はがき(1905年)1918年にイギリス海軍を訪問した東伏見宮依仁親王(左)

1867年(慶応3年)旧暦9月19日誕生
1869年(明治2年)旧暦2月24日山階宮晃親王養子
1877年(明治10年)3月1日海軍兵学校入校(予科生扱い)
1884年(明治17年)4月27日イギリス留学
1885年(明治18年)12月2日小松宮彰仁親王養子
1886年(明治19年)5月1日明治天皇猶子として親王宣下、依仁と改名
1887年(明治20年)7月フランス・ブレスト海軍兵学校入校
1889年(明治22年)7月15日大勲位菊花大綬章
1890年(明治23年)2月貴族院議員(名目上の「皇族議員」、登院の実績は皆無)
1890年(明治23年)7月26日フランス・ブレスト海軍兵学校卒業
1890年(明治23年)8月14日海軍少尉、フランス留学


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