「東京臨海高速鉄道」あるいは「東葉高速鉄道」とは異なります。
東京高速鉄道(とうきょうこうそくてつどう)
(初代)利光鶴松が経営した電力資本・鬼怒川水力電気傘下の企業。1919年(大正8年)に都内の複数の地下鉄路線の免許を申請、1920年(大正9年)3月17日に新宿 - 大塚間の免許が交付されたものの、これを新宿から郊外方向へ延長する形で同じ鬼怒川水力電気傘下の小田原急行鉄道(現:小田急電鉄)が設立される。
(2代目)1934年(昭和9年)設立後、1938年(昭和13年) - 1941年(昭和16年)まで、現在の東京地下鉄(東京メトロ)銀座線の新橋駅 - 渋谷駅間を建設・運営していた東京横浜電鉄(現:東急および東急電鉄)系の企業。本項で詳述する。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932(旧字体社名にあるはしご高))が含まれています(詳細)。
東京高速鉄道株式会社
種類株式会社
本社所在地 日本 東京府東京市赤坂区表町二丁目15番地[1]
設立1934年(昭和9年)9月5日[1]
解散1941年(昭和16年)7月4日
(陸上交通事業調整法に基づき帝都高速度交通営団へ統合)
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業[1]
代表者社長 門野重九郎[1]
株式数600,000株[1]
主要株主
大倉組 53,470株[1]
日本興業 41,000株[1]
第一生命保険 40,000株[1]
第一徴兵保険 30,000株[1]
東京交通企業
東京高速鉄道株式会社(とうきょうこうそくてつどう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:東京髙速?鐵道?株式會社[注釈 1])は、現在の東京地下鉄銀座線の新橋駅 - 渋谷駅間を建設・運営した鉄道事業者である。 もともと東京市(1943年(昭和18年)7月1日、東京府と合同して東京都になる)は、市内交通の公営主義に基づき地下鉄をも市営として建設する計画を持っており、1925年に内務省告示第56号で位置づけられた地下鉄5路線のうち4路線の免許を得ていたが[注釈 2]、予算の問題から実現が遅れていた。しかし一部の企業家は、東京地下鉄道が好成績を収めているのを見て十分な採算性があると考え、東京市の持つ地下鉄建設免許の譲渡を請願した。それを東京市が認めたため、1934年(昭和9年)9月5日、建設運営を行う会社として東京高速鉄道が設立された[2]。当初は前年までに会社を設立することが免許譲渡の条件[3][4]とされていたが、資金が集まらなかったため延期され、東京横浜電鉄(東急電鉄の前身)系列の総帥、五島慶太を発起人に加える形でようやく設立にこぎつけた。そのため、五島が経営の主導権を握ることになった。 譲渡された免許区間は内務省告示第56号のうち、3号線の渋谷 - 東京(丸ノ内)間と4号線の新宿 - 築地間[5]であったが、東京高速鉄道は東京横浜電鉄のターミナルがある渋谷からの建設を開始し、1938年(昭和13年)11月18日、青山六丁目駅(現: 表参道駅) - 虎ノ門駅間を開通させた[6](単線並列[7])。この時、資金難からホームの有効長を3両分にするなど、先行する東京地下鉄道や大阪市電気局(現:Osaka Metro御堂筋線)とは違って建設コストを徹底的に削減して建設したため、1950年代に銀座線の一部列車が4・5両化された際にドア締切扱いが発生し、ホームを延伸する工事が行われることとなった。また新宿 - 四谷見附 - 築地間の路線(新宿線)に関しては、工期の短縮を理由として四谷見附 - 赤坂見附間に連絡線を設け、新宿 - 四谷見附 - 赤坂見附間を敷設して当面は渋谷線(渋谷 - 赤坂見附 - 虎ノ門 - 新橋間)への直通を行う形に計画を変更したため、赤坂見附駅は当初より新宿方面への分岐を考慮した上下二層構造とされた。車両の留置は、青山六丁目駅の渋谷寄りに、坑口付近より高架線にかけて行った(A/B線とも、渡り線なし)[7]。 同年の12月20日には、渋谷線の渋谷駅 - 青山六丁目駅間が開業する[8]。この時、青山から渋谷方面へ地形に沿って地下で進むと急勾配が発生し、当時の電車の性能では登坂が不可能と判断されたこと、それに五島率いる東京横浜電鉄との接続を重視したため、当該区間は高架で建設され、東横百貨店(現: 東急百貨店)の3階に乗り入れる形で東京高速鉄道の渋谷駅は設けられた。 東京高速鉄道渋谷線は虎ノ門駅から先は、当面の間新橋駅まで延伸し、東京地下鉄道線(この時点で新橋駅 - 浅草駅間が開業済み)と直通運転することを目論んでいた。しかし早川徳次率いる東京地下鉄道は京浜地下鉄道を設立し、新橋駅から品川駅まで延伸して京浜電気鉄道(現: 京浜急行電鉄)との直通運転を行うことを計画していたことから、両者を同時に乗り入れさせるのはダイヤ的に困難だとして、これを拒否しようとした。
経緯