東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯
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東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯(とうきょうでんりょくはつのげんしろにふっとうすいがたがさいようされたけいい)では東京電力原子力発電に関心を示し、最初に建設を決めた原子炉である福島第一原子力発電所1号機に沸騰水型原子炉を採用したいきさつについて説明する。
東京電力の社内調査着手

当時東京電力副社長で立地選定の途中で不祥事の責任を取って一旦降格し、その後社長に昇格することになる木川田一隆[注 1]は元々原子力に対して否定的なスタンスの持ち主だった。アイゼンハワー平和のための原子力演説が行われた翌年の1954年、日本でも原子力予算の大幅な増額が国会で可決されたが、この頃木川田は東京電力企画課長の着任したばかりの成田浩に向けて「原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」と語っていたという[1]

しかし、その翌年読売新聞社社主にして衆議院議員であった正力松太郎を中心とした導入推進運動が活発化し、その主導権を巡って日本発送電を分割民営化した9電力会社と電力を所管する通商産業省(及びその意向を汲む電源開発)との間で熾烈な争いが始まった。この件については両者の出資で原子力発電所導入のパイロット機関として日本原子力発電を設立し、イギリスからコールダーホール型を導入することで決着がついたが、その間の1955年11月1日、東京電力は社長室に原子力発電課を新設、木川田の内心がどのような経緯で変化したのかについては誰も分からなかったものの、以降は原子力発電を肯定する立場にシフトした[2]

当時、東電常務だった白澤富一郎によれば、木川田は田中直治郎を中心とした特別プロジェクトを編成し、社として調査を実施していた[3]
原子力発電課の始動

この頃、1955年8月にジュネーヴで「第一回ジュネーブ会議」が開催され、当時の原子力先進各国が膨大な研究成果を披露した。この会議では、BWRの原型となるアルゴンヌ国立研究所のEBWRの他、PWRやGCRも紹介されたが、それにも増して重要だったのは、各種の炉物理、核設計のデータが公開されたことだった。上述のように、当時若手技術者3名で他社より若干遅れてスタートした東電社長室原子力発電課にもこの会議などで入手・翻訳した資料が山のように積まれ、その精読が始まっていたという[4]。1955年年末になると電気事業連合会は原子力発電連絡会議を設け、東京電力もこの集まりを通じて各社と調査・研究の連絡体制を取った[5]

3人の若手技術社員は各々で研究分野の分担を決め、政策、経済性、安全性、設計、計画、放射線遮蔽、計装制御、廃棄物などに区分して研究を進めた。初期には下記の3冊

『原子核工学』(マーレイ,Raymond L.Murray)

『原子力ハンドブック』(グラストン,Samuel Glasstone)

『原子炉の理論』(グラストン、エドランド,Samuel Glasstone,M.C.Edlund)

を原著や独自訳を使用しながら輪読したという[6]社報には1954年4月に初めて原子力発電の話題が掲載され、1956年1月より「原子力発電ABC」の連載が始まり、社員一般への啓蒙も始められた[7]

上記のように一部の機密開示で東京電力を含む日本の原子力発電への知見は高まった。なお、原子力発電課が発足して間もない頃、当時の社長高井亮太郎[注 2]は欧米の原子力発電開発を視察したが、その結論は安全性や技術的に紆余曲折が予想されるので慎重に事を進めなければならないといったもので、「カゴに乗って走る」と喩えたという。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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