東京鎮台
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東京鎮台(とうきょうちんだい)は、1871年から1888年まであった日本陸軍の部隊で、当時全国に4ないし6つあった鎮台の一つである。1888年に鎮台が廃されたとき、第1師団に改組してなくなった。
東京鎮台の発足

東京鎮台は、1871年(明治4年)に鎮台の数を2から4に増やしたとき、大阪鎮台とともに新設された[1]。東京鎮台の管轄地は、現在の関東地方と、現在の新潟県・山梨県・長野県・静岡県・愛知県・岐阜県・三重県に及んだ。

発足当初は徴兵制がなかったので、鎮台の兵士は旧藩兵から採用された。翌1872年(明治5年)3月に東京鎮台条例が制定され、鎮台の任務と権限が規定された[2]。各鎮台の権限に違いはないが、東京には近衛があったため、条例にはこれとの調整が規定された。皇城すなわち皇居の警衛は近衛の任務であったが、近衛部隊の演習中に東京鎮台が守衛を行うことはあった[3]

条例では、第1分営は新潟に設置する予定であったが、兵営に適当な場所を見つけられないため、当面は新発田城がある新発田に置した[4]

1872年(明治5年)の7月19日に、歩兵2個小隊を水戸の元水戸城に分派し、8月5日にそこが第4分営となった[5]
鎮台条例の制定

1873年(明治6年)7月19日に鎮台条例が制定され、鎮台の数は6つに増えた[6]。鎮台の管轄地は軍管と呼ぶことになり、東京鎮台の管地は第1軍管となった。このとき西隣に名古屋鎮台が新設されたため、中部地方の大部分はそちらの第3軍管に譲った。第1軍管の範囲は、現在の都道府県にあてはめると、関東地方と山梨県、長野県北部、新潟県である。第1師管(本営は東京)・第2師管佐倉)・第3師管高崎)という3つの師管に分けられた。3師管を擁するのは東京の第1軍管と大阪の第4軍管だけで、他は2つであった。師管には同じ番号を持つ歩兵連隊1個が対応したので、東京鎮台は3個歩兵連隊を持つことになった。師管内にはそれぞれ3か所の分営を配置した。

1873年は徴兵令が発布された年であり、第1軍管では1873年度から徴兵事務を開始した[7]。従来からの旧藩兵からの志願兵は、徴集された徴兵と区別して壮兵という。その後も徴兵で足りない人数をおぎなうために士族・卒からの志願を募り[8]、徴兵と壮兵はしばらくの間一緒に勤務した。
鎮台兵力の充足

1875年(明治8年)4月7日改訂の「六管鎮台表」によれば、第1師管には歩兵第1連隊、第2師管には歩兵第2連隊、第3師管には歩兵第3連隊が設けられた。歩兵以外には、騎兵第1大隊、砲兵第1大隊、工兵第1小隊、輜重兵第1小隊、預備砲兵第1大隊、預備工兵第1小隊が配属された。預備砲兵・工兵は「予備」ではなく「預備」の字である。さらに品川、横浜、新潟には海岸砲隊が置かれ、人員の総数は平時6900人、戦時1万0050人である[9]

ただこれは予定であり、部隊・定員が充足していたわけではない。鎮台条例制定時には歩兵連隊はなく、歩兵第1連隊が1874年1月、第2と第3は同年12月(または11月)に編成された[10]。海岸砲隊についても1875年末まで動きがなかった[11]

1877年(明治10年)に起きた西南戦争は、鎮台制下最大の戦争となった。このとき東京鎮台の司令部は動かず、部隊を抽出して九州に送り出した。
1885年改正

1885年(明治18年)、太政官達第33号(5月18日制定・公布)により、鎮台条例が改正された[12]。この改正は前から決まっていた軍拡方針を受けたもので、6鎮台の戦力は均一にそろえられることになった。各鎮台の師管は2つずつとなった。師管には歩兵旅団を1個置き、歩兵旅団は2個歩兵連隊からなったので、東京鎮台は2個歩兵旅団、4個歩兵連隊を擁することとされた。しかし、4番目となる歩兵第15連隊は1884年(明治17年)に編成に着手したばかりで、その完了は鎮台廃止の前年の1887年(明治20年)になった[13]>。
廃止と第1師団への移行

1888年に鎮台条例は廃止され、師団司令部条例など一連の法令が制定されて、鎮台制から師団制に変わった。


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