東京都立駒場高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分18.1秒 東経139度41分7.6秒 / 北緯35.655028度 東経139.685444度 / 35.655028; 139.685444
東京都立駒場高等学校(とうきょうとりつ こまばこうとうがっこう)は、東京都目黒区大橋二丁目にある東京都立高等学校。 東京府立第三高等女学校を前身とする東京都立高等学校。目黒区立第一中学校と校地が隣接している。周囲は筑波大駒場、駒場東邦、駒場学園、日本工大駒場などが立地する文教地区で、東京大学教養学部から南におよそ700mの高台に位置する。1946年(昭和21年)に現在地に移転してくるまで麻布(旧麻布日ヶ窪町、現六本木ヒルズ付近の港区立六本木中学校の地)に校舎があった。 戦前は中等女子教育の名門中の名門としてその名を馳せ、「浅草の第一(白?)、小石川の第二(竹早)、麻布の第三(駒場)」と評されていた[1]。初代校長の小林盈は体力養成を強く奨励。「足の大きくなる学校」と言われる程、体操授業に力を入れ、1929年まで20年以上にわたって校長職を務め、府立三女の基礎を築いた。1930年に広瀬雄(第3代・前 府立三中校長)が校長に就任すると、校友会活動にも力を入れ、活発な活動を行うようになっていく[2]。戦後の学制改革により男女共学に移行した後も、各界に多彩な人材を送り出してきた。特に都立高校全盛期において、女子では都立難関校の一つに数えられていた[3]。 歴史的建造物である仰光寮が保存されているなど、伝統校としての一面が窺える。一方で、土曜授業の導入や進学指導体制の整備が進んでいる。 また2007年6月には東京都教育委員会より国分寺、小山台、新宿、町田の各校と共に「進学指導特別推進校」に指定され、教員の公募制や進学指導体制の更なる充実を実施し、進学実績向上に取り組んでいる。 敷地内には「仰光寮」と呼ばれる木造二階建ての建築物が残されている。これはもともと香淳皇后が当時の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の妃に内定した際、お妃教育の場として建てられた「お花御殿」である。彼女が入内した後、当時の東京市麻布区日ヶ窪に校舎があった東京府立第三高等女学校(現在の駒場高等学校)に下賜された[5]。第二次世界大戦後に校舎を現在地に移転した際に仰光寮を移築し、現在に至っている[5]。
概要
校舎外観
校内の案内図
石のオブジェ「五大陸」
陸上競技場
散策路
仰光寮の内部
沿革
1902年4月 - 東京府立第三高等女学校開校。
1940年 - 英語部が岡倉英語教育賞を受賞。
1946年9月 - 第二次世界大戦より現在の地に移転。
1950年
1月 - 東京都立駒場高等学校と校名を変更。
4月 - 男女共学開始。加えて保健体育科と芸術科(美術科・音楽科)を併設。
1951年5月 - 創立50周年記念式典を祝う。
1952年 - 学区合同選抜制度導入。
1962年5月 - 旧校舎である鉄筋4階建ての校舎完成。
1967年2月 - 駒場・新宿高校で21群の学校群制度導入。
1969年10月18日 - 大学などの学生運動の影響を受けた生徒の一部が、日米安全保障条約の粉砕を主張して校舎を占拠[4]。
1972年4月 - 芸術科が東京都立芸術高等学校として分離独立。
1982年 - グループ合同選抜制度導入、戸山・青山・新宿・都立大学附属・広尾・目黒・赤城台の各校と共に21グループを組む。
1994年 - 単独選抜制度へ移行。
1995年
3月 新校舎竣工。
11月 校舎改築竣工記念式典を挙行。
1997年3月 - 定時制閉課程。
2002年11月 - 創立100周年記念式典を挙行。
2007年 - 東京都教育委員会より「進学指導特別推進校」に指定。(?2012年度)
2012年3月 - 東京都立芸術高等学校 閉校。
2013年 - 東京都教育委員会より「進学指導特別推進校」に継続指定。(?2017年度)
仰光寮(お花御殿)