東京都立竹早高等学校(とうきょうとりつ たけはやこうとうがっこう、英称:Tokyo Metropolitan Takehaya Senior High School)は、東京都文京区小石川にある東京都立高等学校。 1899年(明治32年)創立の「東京府立第二高等女学校」を前身とする。創立当初から1945年(昭和20年)まで、校長・教職員は東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)と兼務で、学校行事も合同で実施しており、戦後も校地を共有していた(沿革参照)。 現在は学芸大附属幼稚園竹早園舎・附属竹早小・附属竹早中と校地が隣接している。 一方、神奈川県立光陵高等学校(国立大附属中学校と連携)、静岡県立浜松湖北高等学校佐久間分校(公立中学校と校地と共有して連携)のように、学芸大附属竹早中と異設置者連携型一貫教育を実施して、校地共有を復活する動きはない。 戦前は高等女子教育の名門としてその名を馳せ、「浅草の第一(白?)、小石川の第二(竹早)、麻布の第三(駒場)」と並び称されていた[1]。 標準服はあるが、服装は自由(私服で登校可能)。「自主自律」を校風とする。 東京都から進学指導推進校に指定されており、入試に於いては都の共通問題を使用している。 1学年定員が他校と比較して小規模であることや、帰国子女の受け入れを行い、2年次からは自由選択科目として第二外国語(フランス語、ドイツ語)もある。 土曜自習室である「竹早塾」では、現役OBによる補習などの学習支援が行われている。 また、東京都からは進学指導推進校以外にも理数研究校、英語教育推進校、海外帰国生徒受け入れ校にも指定されている。
概要
教育
沿革
1900年(明治33年) - 「東京府第二高等女学校」創設。1897年の文部省訓令に沿って「東京府女子師範学校」に併設され、校舎は現校舎の北側にあった光圓寺の旧本堂を借用し授業を開始した。東京府師範学校(現・東京学芸大学)の赤坂区移転に伴い、竹早町跡地において、11月7日、開校式挙行。この日を開校記念日と制定。
1901年(明治34年) - 同窓会創立。7月、「東京府立第二高等女学校」と改称。
1907年(明治40年) - 校歌(畠山健作詞、岡野貞一作曲)制定。
1921年(大正10年) - 生徒定員が2倍に倍増し、2学級制になる。アントワープ五輪後に着任した金栗四三教諭を中心に、第1回東京女学生庭球大会(時事新報社主催)が校庭で開催され、宮家王女たちを含む約2000人の来場を集める。
1922年(大正11年) - 同窓会を篁会と改称。
1923年(大正12年) - 第6回極東選手権競技大会(大阪で開催)女子バレーボールエキジビションに「竹早チーム」(女子師範生と第二高女生の合同チーム)が選抜出場し、中国チーム、姫路高女と争い準優勝。このとき「竹早応援歌」(渡邊殖作詞、大和田愛羅作曲)が作られ、大阪に向かう選手の壮行として東京駅で生徒たちが合唱した。その後、各種大会で活躍し「関東の強豪」と称せられる。
1925年(大正14年) - 第2回明治神宮競技大会でバスケットボール優勝。
1927年(昭和2年) - 第4回明治神宮競技大会ではバレーボールで優勝。第1回バスケットボールフリースロー世界選手権大会(米国YMCA主催)の日本国内競技を校庭で開催。ジュニア女子部門(5人一組)300満点中259点で「竹早チーム」、個人部門で第二高女生が60回中56回成功で、ともに世界一位に認定される。
1929年(昭和4年) - 活動しやすいセーラー服の制服や、校章制定。中国・九州遠征の競技旅行がバレーボール部、バスケットボール部、テニス部合同27人の生徒参加で行われ、各地の高女や女子師範の生徒と対戦した。
1931年(昭和6年)11月 - 宣仁親王妃喜久子台臨。
1932年(昭和7年) - 校旗制定。
1934年(昭和9年) - 3階建て鉄筋コンクリートの新校舎竣工。
1937年(昭和12年) - 日中戦争勃発。慰問袋や陸軍軍需品等を制作。数回にわたり防空演習や防火演習を行う。
1943年(昭和18年) - 都制施行により「東京都立第二高等女学校」と改称。補習科を専攻科と改称。校舎を共用の女子師範学校が官立に移行、校舎・敷地を国から間借りする形になる。
1948年(昭和23年) - 学制改革により「東京都立第二女子新制高等学校」と改称。定時制課程が設置される。