東京都立日比谷高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分34.5秒 東経139度44分23秒 / 北緯35.676250度 東経139.73972度 / 35.676250; 139.73972
東京都立日比谷高等学校(とうきょうとりつ ひびやこうとうがっこう、英語: Tokyo Metropolitan Hibiya High School)は、東京都千代田区永田町二丁目に所在する東京都立高等学校。 同校は、最初[1]の東京府立中学(現在の東京都立高等学校)として1878年に現在の文京区本郷にて東京府第一中学(府立一中)の名称で開校した[2]。 現在の「日比谷」という名称は、戦後に校名が変更される際、当時の菊地龍道校長(前横浜一中校長で、後の駒場東邦中・高初代校長)によって、1899年?1929年の期間校地であった旧麹町区西日比谷1番地(現:千代田区霞が関一丁目1番)に因んで命名されたものである。 東京のエリートコースといわれた戦前の「府立第一中学→第一高等学校→東京帝国大学」および戦後の「番町小→麹町中→日比谷高→東大」の一角を担った学校である[3][4]。戦前、愛知一中(現:旭丘高校)、神戸一中(現:神戸高校)と並び「一中御三家」とも称された[5]。 神奈川県立横須賀高校と並び、五輪金メダリスト(西竹一)、内閣総理大臣(阿部信行)、ノーベル賞受賞者(利根川進)を揃って輩出した高校である。 1878年に東京府第一中學(東京府第一番中學)は、文京区の本郷元町にあった旧:玉藻小學校にて開校した。のち、すぐに官立東京英語學校の空校舎に移る。創立当初から明治半ば頃までは学制や教育令の理念に忠実な東京府學務課の方針もあって、高等普通教育を教授する機関[6]として独自の正則教育を標榜していた。そのため、中産階級の育成を目的としたと思われる「中人」または「実業人」などと具体的な教育像が定まらないながらも、上級学校への進学面に重きをおいてはいなかった[7]。草創期に、上位学校への進学を目的とした変則科ではなく正則科に入学した夏目漱石がその後二松學舎や成立學舎に移っていったのは、西南戦争後の資本や教員の人材不足を背景とした、混沌とした学制混乱期と官公立の宿命としての当時の一中の教育のあり方の一例として見ることができる。『今の東京府立第一中学―其の頃一ッ橋に在った―に入ったのであるが、この中学というのは、今の完備した中学などとは全然異っていて、その制度も正則と変則との二つに分れていたのである。正則というのは日本語ばかりで、普通学の総てを教授されたものであるが、その代り英語は更にやらなかった。変則の方はこれと異って、ただ英語のみを教えるというに止っていた。それで、私は、(中略)、此の正則の方であったから、英語は些しも習わなかったのである。英語を修めていぬから、当時の予備門に入ることがむずかしい。』夏目漱石『私の経過した学生時代』[8] 当初の大學予備門諸規則では、母体となった旧:官立東京英語学校生徒に配慮して入学要件を13歳以上としたため、一時期、中学卒業要件は未規定だった。そのため、500人内外の生徒数を擁したマンモス校であったが、卒業年を待たずに大学予備門・第一高等中学校に進む者、また床次竹二郎によれば、上級学校進学に特化した進学予備校など市井の各種受験校に通う者移る者も多かった[9]。 その後は、設立以来の東京帝国大学の要請もあり、次第に「一高→帝大(東大)」の一貫ルートとしての色合いが濃くなっていった。以後も東京府中學と大學豫備門、東大との教員の交流は独特なものがあり、「一中→一高→帝大」とされた所以でもある[7][10]。また、明治初期以来の歴史を持つ文京区の誠之小学校、千代田区の番町小学校、麹町小学校等の各小学校には、都下の有力者の子弟が学区を超えて集まり、その多くが「一中→一高→帝大」のルートを進んだ[11]。これは当時、現在の文京区西片や千代田区番町・麹町等に居を構えることが日本のエスタブリッシュメント、すなわち支配階級の証でもあったことから、選抜試験を施さない公立小学校でありながら、帝大教授の子弟や貴族院議員の係累から子爵の末裔まで、およそ日本の上流階級層が好んで集ったためである[11]。当初、政府や東京府は従来の寺子屋教育の踏襲や雑多な教科目、その学科偏頗をして各種学校を正規の学校と見なさず、その中で中学校に準じるものの殆どが英語や漢文、数学を主とする進学予備校であった[7][12][13]。第9代勝浦鞆雄校長 1890年に勝浦鞆雄(前:東京府尋常師範(現:東京学芸大学)幹事)が第9代校長に就任してからは、生活指導と進学指導が活発化。それまで私立校(今でいう塾・予備校に近似)の後塵を拝していた進学実績は伸びることとなり、明治半ばから後半にかけて[14]、一躍一高合格者数で首位に踊り出した[15]。
概観
教育方針
個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間を育成する
沿革
草創期明治22年(1889年)卒業生写真
「一中→一高→帝大」のルート