東京都立戸山高等学校
[Wikipedia|▼Menu]

東京都立戸山高等学校
戸山高等学校正門
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分23.5秒 東経139度42分37.5秒 / 北緯35.706528度 東経139.710417度 / 35.706528; 139.710417座標: 北緯35度42分23.5秒 東経139度42分37.5秒 / 北緯35.706528度 東経139.710417度 / 35.706528; 139.710417
過去の名称補充中學校
共立中學校
東京府城北尋常中學校
東京府城北中學校
東京府立第四中學校
東京都立第四中學校
東京都立第四新制高等学校
国公私立の別公立学校都立
設置者 東京
設立年月日1888年9月16日
共学・別学男女共学
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科(8もしくは9学級)
学期3学期制
学校コードD113299902012
高校コード13207B
所在地162-0052
東京都新宿区戸山3-19-1
外部リンク公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

東京都立戸山高等学校(とうきょうとりつ とやまこうとうがっこう、英語: Tokyo Metropolitan Toyama High School)は、東京都新宿区戸山三丁目に所在する東京都立高等学校
概略

1888年設立。都立高校では前身時代を合わせると二番目に古い歴史を持ち、府立四中を前身とする[1]進学指導重点校に指定されており、土曜授業試行校でもある。文理分けをしないいわゆる「教養主義」を採用し、理数系教育に力を入れてきたことから国公立大学入試に強い[2]

校風は「自主自立」と表され、私服校である。また、校則は存在せず、生徒会規則がその役割を担っている。文部科学省からスーパーサイエンスハイスクール (SSH) の指定を、東京都教育委員会からチームメディカル (TM) の指定を受けている。
教育方針

自ら重んじ個性をのばす

努力を尊び責任をはたす

心を豊かに体を健やかにする

沿革
略歴東京府立第四中学校(戸山高校の前身)発祥の地碑(千代田区飯田橋)。さらに牛込第三中学校北東隅には東京都立(府立)第四中学校の跡碑がある。

1888年明治21年)、東京府尋常中學校(現:日比谷高)は、当時の中学校令尋常中学校は1府県に1校と定められていた中で分校の設立を考え、東京府会の内諾を得られる見通しとなった7月に志願者を募集、600名の応募者の中から約200名の合格を決定した。しかし8月の東京府会で分校の設立は見送られることとなったため、東京府学務課長・元田直、東京府尋常中学校長・丸山淑人、今泉定助教諭、皇典講究所幹事・松野勇雄らにより、東京府尋常中学に欠員が生じた場合に生徒を転入させる学校として9月16日、飯田橋の皇典講究所(國學院大學の前身)敷地内に私立補充中学校を開校した[3]。そして1888年度は12名、1889年度は78名、1890年度は63名が東京府尋常中学へ転学したが、1891年(明治24年)12月14日の中学校令の一部改正により(官公立の)尋常中学の設立要件が緩和されたため、同校の校長交代に伴ってこの補充制度は断ち切られてしまい、私立の共立中學校と改称した。これはまた、第一高等中学校(のちの一高)など官立高等諸学校への進学が断ち切られたことをも意味し、私立校は軒並み生徒が集まらなくなった[4]

この中学校令の一部改正では、郡区町村費による尋常中学の設立が条件付きで認められるようになると、東京市参事会東京府知事宛てに「東京市立中学校」となるための請願書を提出[5]1893年(明治26年)、東京府へ5000円を寄付することにより公立並みの待遇(徴兵猶予や校地に対する免、卒業生の判任官任用など)が得られる制度が設けられることとなり、まず共立中學(戸山)が、次いで共立學校(現:開成中・高)の2校が東京府の管轄下に入り、1895年(明治28年)、それぞれ東京府城北尋常中學校、東京府開成尋常中學校と名を改めた。1900年(明治33年)、文部省が私立を公立として待遇することを廃したため、翌年開成は純粋な私立に戻り、戸山は府立第四中学と名称を改め、現在に至る[6][7]

同校が府の管轄に留まったのは、当時の私立は江戸時代以来の寺子屋や塾など雑多であり、あるいは受験予備校的色彩が強く教科目も偏り正統性を持ち得なかったこと、それに対して官公立諸学校が当時の国家存立の教育手段として革新的位置づけにあったことによる。また官学崇拝の強い風潮のなか、補充中学以来の「府立」の名を慕って入学してくる生徒も多かった[2]1908年韓国[8]李完用内閣の学部大臣の依頼により朝鮮ないし韓国貴族(両班)の子弟12名が入学した[9]

深井鑑一郎校長(在任:1898 - 1938年)の40年に及ぶ時代は、一中(日比谷)を追い越すことを念頭に東京一の中学を目指し、猛勉と規律を強制した[7][10]。現在の都立の環境からは想像できないが、始業式当日に式の後に授業があった程で、予習、復習をみっちりやらせ、それを怠った場合や指されて応答できなかった場合は居残りをさせた。校則も厳しく忘れ物も3回(あるいは5回)に及ぶと成績評価がワンランク下げられたりし、中退者も1割に達するなど、当時の一部の世情は四中をもじって「死中」と呼ぶほどであった[11][12]。こうして、毎年第一高等学校合格者数で一中に肉迫するようになり、1935年以降は、ほぼ毎年旧制高等学校現役合格率で首位にいた。さらに深井の“スパルタ教育”の影響も色濃く「市ヶ谷台」という土地柄、陸軍幼年学校陸軍士官学校海軍兵学校等の軍学校に多数が入学した[11][13]

戦後、学制改革により都立第四高等学校となる。1949年に男女共学となり、また新宿区戸山の近衛騎兵連隊跡地に移転、翌1950年から都立戸山高等学校となる。1950-60年代には、日比谷、西、および新宿小石川などと共に東京大学合格者数最上位校の一角を成していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:56 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef