東京都立大学_(1949-2011)
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東京都立大学
南大沢キャンパス(2006年10月)
大学設置1949年
創立1929年
廃止2011年
学校種別公立
設置者公立大学法人首都大学東京
本部所在地東京都八王子市南大沢1-1
キャンパス南大沢(東京都八王子市)
晴海(東京都中央区
学部人文学部
法学部
経済学部
理学部
工学部
研究科人文科学研究科
社会科学研究科
理学研究科
工学研究科
都市科学研究科
ウェブサイト ⇒http://www.metro-u.ac.jp/
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東京都立大学(とうきょうとりつだいがく、英語: Tokyo Metropolitan University)は、かつて日本に存在した公立大学である。

東京都八王子市に本部を置き、公立大学法人首都大学東京によって運営されていた。略称は都立大(とりつだい)、都大(とだい)。2005年平成17年)4月1日、本学を含む4つの大学・短期大学を前身とする首都大学東京へ統合され、2011年(平成23年)3月31日をもって閉学した。

なお、首都大学東京が2020年令和2年)に「東京都立大学」に改名したことにより[1][2]、東京都立大学を称する大学が再び誕生したが、2つの大学には一定の断絶がある。
沿革

東京都立大学の一番古い母体は、1929年に、設置された7年制の旧制高校旧制府立高等学校である。府立高等学校は、東京府が公立では3番目の高等学校として設置し、内地の7年制高等学校としては最も新しくできた。7年制高校とは、4年間の尋常科と3年間の高等科を置いた英国のパブリックスクールになぞらえ、イートンハーレーに範を取った高校である。このシステムには、中学の時点で既に帝大への進学が確証されるという利点があった。戦前は、府立一中官立一高東京帝国大学とすすむ道が、エリートコースとされていたが、一高と一中の管轄が違うために、一中が独自に上に接続する高校を作ろうとした。しかし周りの中学が反対したためにできたのが、この旧制府立高校である。そのため麹町区永田町の東京府立第一中学校内で、1929年に東京府立の高等学校として開校した。初代府立高校校長の川田正澂も府立一中との兼任であった。川田正澂の胸像は都立大学の正門脇に建っている。川田は学校設立にあたり、英国のイートン校を理想として、「自由と自治」の精神を学校教育の真髄とした。そういう経緯から、旧制府立高等学校(後の都立大学及び都立大学附属高校)の校章は、桜に旭日、府立一中の逆である。

1932年、府立高校は、現在の東京都目黒区八雲一丁目1番1号に移転し、一高と双璧をなす旧制府立として有名になった。戦前、7年制高校は全国で8校あり、東京には、官公立では東京高校と府立高校、私学では武蔵高校成城高校成蹊高校があった。また1934年に東京高校が尋常科の募集を停止したため、府立高校は東京で唯一の官公立7年制高校となり、過剰な人気を博す。

府立高校は、第二次大戦中の1943年東京都制が始まるに伴い都立高等学校と改名し、戦後の1949年学制改革を迎える。この改革で、旧制都立高校の尋常科は東京都立大学附属高校に改組して、高等科は東京都立大学教養部と諸学部に改組した。もう一方の東京高校は尋常科が東京大学教育学部附属高校に、高等科が新制東京大学に改組された。また都立大学の設立に当たっては他の5専門学校も都立大学に組み入れられた。都立工業専門学校都立理工専門学校都立機械工業専門学校都立化学工業専門学校都立女子専門学校である。これらのうち、理系4専門学校は都立大学の理学部、工学部に引き継がれている。こうして都立大学は、昼夜開講制度を取る総合大学として、人文学部、理学部、工学部の3学部体制で発足した。同窓会の名称は、旧制府立高校の伝統を引き継ぎ、地名の八雲1-1-1からとった八雲会である。1957年に、A類とB類の二部制度となり、それぞれ修業年数が4年・5年と定められたが、入試内容・教授陣・授業内容・卒業資格に区別はなく、昼夜同等の教育が続けられた。また、この年に人文学部から法経学部が独立し4学部体制となった。1966年に、法経学部が法学部と経済学部に分かれ5学部体制となり、牧野富太郎標本記念館、小笠原研究委員会が設立された。更に、1977年には都市研究センターが設立される。

だがこのように組織を拡充するにつれ、新たな問題が浮上する。八雲キャンパス、及び、理学部、工学部の深沢キャンパスが手狭になったのである。このために、1991年東京都目黒区八雲1-1-1に附属高校は残したまま東京都八王子市南大沢1-1-1に移転し、施設を大幅に拡充し、国際交流センター、情報処理施設、RI研究施設、環境保全施設などを新たに設置した。1994年都市研究センターを都市研究所に改称し、1996年都市科学研究科に博士課程を設置した。1997年ウィーン大学と学生交換留学協定に調印し、2000年イェール大学文理大学院と人文学部英文科が学生交流協定に調印した。2003年から社会科学研究科に経営学専攻 (MBA) を設置し、2004年から同研究科に法曹養成専攻専門職学位課程(法科大学院)を設置した。
年表

1949年 - 東京都立大学開学 (人文学部、理学部、工学部設置)

1953年 - 人文科学研究科 (修士)、社会科学研究科 (修士)、理学研究科 (修士)、工学研究科 (修士)設置

1955年 - 人文科学研究科 (博士)、社会科学研究科 (博士)、理学研究科 (博士)、工学研究科 (博士)設置

1957年 - 法経学部設置

1966年 - 法学部、経済学部設置

1977年 - 都市研究センター設置

1984年 - 都市研究所

1986年 - 都市科学研究科 (修士)

1988年 - 都市科学研究科 (博士)

1991年 - 八王子市南大沢に移転

2003年 - 社会科学研究科に経営学専攻 (MBA) を設置

2004年 - 社会科学研究科に法曹養成専攻専門職学位課程 (法科大学院) を設置

2005年 - 東京都から公立大学法人首都大学東京に移管

2011年 - 東京都立大学閉学

都立4大学整理、統合

1990年代後半、政府、地方自治体は経済不況および少子高齢化の進行による財政難を解消すべく、行財政改革に着手した。その流れで国公立大学は整理、統合のうえ「独立行政法人」として政府、地方自治体の保護から離れるべきという機運が日本社会に高まった。東京都立大学も例に洩れず、他の都立の大学(東京都立科学技術大学東京都立保健科学大学東京都立短期大学)と共に整理、統合される予定となった。

ところが、2003年4月の東京都知事選挙で「まったく新しい大学を作る」という公約を掲げた石原慎太郎が二期目当選を果たし、新大学の構想について学部構成や履修形態などが大幅に変わるなど事態は急展開を迎えた。この過程において、多数の教員が流出するなど、大きな混乱が生じた(後述)。

なお、都立大学の各学部は、新設された首都大学東京において都市教養学部に統合されていたが、2018年度には、人文社会、法、経済経営、理の4学部へと解体・再編して、かつての東京都大学改革大綱での学部構成へと概ね「回帰」した。さらには、2020年度より大学名も「東京都立大学」として、引き継ぐことにした。
構想転換から閉学までの流れ

2003年

8月1日、東京都大学管理本部(2002年に大学改革推進に資するため設置。以下、管理本部とする)が、それまで大学関係者を交え議論、合意してきた「東京都大学改革大綱」を一方的に破棄した上で「都立の新しい大学の構想について」を発表した。

9月25日、都立大人文学部が抗議声明を出した。

10月7日、都立大総長茂木俊彦が「新大学設立準備体制の速やかな再構築を求める」という声明を出した。

11月1日、法政大学社会学部の荒井容子を中心に「都立の大学を考える都民の会」が発足した。

12月5日、「東京都が新大学の学部理念を河合塾に委託」という報道がなされた。なお、これは「理念作成や詳細設計に必要な資料」の作成を外注したものという答弁が後日の都議会でなされている。

12月11日、法学部4教授のうち、2名の抗議辞職、2名の体調不良による退職で都立大法科大学院の入試が延期された(2004年2月末実施)。家族法の石井美智子、行政法の磯部力がそれぞれ、明治大学立教大学に移籍した。


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