東京都立園芸高等学校
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この項目では、東京都世田谷区に所在する農業高等学校について説明しています。東京都杉並区に所在する農業高等学校については「東京都立農芸高等学校」をご覧ください。

東京都立園芸高等学校

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度37分10.3秒 東経139度38分51.2秒 / 北緯35.619528度 東経139.647556度 / 35.619528; 139.647556座標: 北緯35度37分10.3秒 東経139度38分51.2秒 / 北緯35.619528度 東経139.647556度 / 35.619528; 139.647556
国公私立の別公立学校
設置者 東京
設立年月日1908年
共学・別学男女共学
課程全日制課程
定時制課程
単位制・学年制学年制
設置学科園芸科
食品科
動物科
学期3学期制
学校コードD113299902174
高校コード13121A
所在地158-8566
東京都世田谷区深沢5-38-1
外部リンク公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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東京都立園芸高等学校(とうきょうとりつ えんげいこうとうがっこう、: Tokyo Metropolitan Engei High School)は、東京都世田谷区深沢五丁目にある都立農業高等学校。設置学科は園芸科、食品科および動物科。全日制課程と定時制課程を併設している。略称は園芸(えんげい)、園高(えんこう)、園芸学校(えんげいがっこう)、東園(とうえん)等。
概要

1908年(明治41年)、東京府立園芸学校として開校。当時相次いで全国各地に農業学校が設立された中、花卉園芸(観賞園芸)・蔬菜・果樹等の園芸の分野に特化した教育を行っていた。

戦前から戦後にかけては全国の農業学校の中心的な立場を持ち、東京近郊からだけではなく全国から生徒が集まった。戦前までは5年制の寮制の学校であり、朝鮮半島や中国からの留学生もいた。卒業にあたっては論文の提出が課された。戦後に共学となるまでは男子生徒のみであった。

2006年(平成18年)には学科改編を行い、愛玩動物について学ぶ「動物科」を新設した。

2021年(令和3年)度の全日制の生徒数は420人(女子274人・男子146人)[1]
沿革

1908年(明治41年)

農業学校(甲種程度)として設立認可される。

東京府立園芸学校開設。


1909年(明治42年) - 寄宿舎を開設。

1910年(明治43年) - 玉川果樹園を開設。

1926年(大正15年) - 学則改正で定員500名、修業年限が5年となる。

1930年(昭和5年) - 専修科を新設。

1941年(昭和16年) - 本科を園芸科造園科に分離。

1944年(昭和19年) - 専修科を廃止。農業科を新設。

1948年(昭和23年) - 東京都立園芸新制高等学校と改称。同時に本校定時制課程、定時制砧分校、八丈分校を設置。全日制は修業年限3ヵ年となる。

1949年(昭和24年) - 初の女子生徒が編入、以後共学となる。

1950年(昭和25年)

東京都立園芸高等学校と改称。

八丈分校が独立し、東京都立八丈高等学校となる。


1951年(昭和26年) - 東京都農業研究指定校に指定。

1953年(昭和28年) - 文部省産業教育指定校となる。

1955年(昭和30年) - 同窓会により、伊豆下田に下田農場を開設。

1957年(昭和32年)

農業科を廃止。農産製造科を設置。

創立五十周年記念事業協賛会を結成。


1958年(昭和33年) - 砧分校を廃止。

1959年(昭和34年) - 東京都高等学校道徳教育協力校に指定。

1962年(昭和37年) - 東京都高等学校農業研究協力校に指定。

1963年(昭和38年) - 農産製造科を食品化学科に改称。

1964年(昭和39年) - 寄宿舎を廃止し、プール建設のために取り壊し。

1965年(昭和40年) - 下田農場が本校の管理となる。

1989年(平成元年) - 初めて女子の生徒数が男子を上回る[2]

1990年(平成2年) - 校内にバラ園を築造。定時制「園芸技術専修生」制度が開始。

1997年(平成9年) - 食品化学科を食品科学科に、造園科を造園デザイン科に改称。

1998年(平成10年) - 園芸科を園芸デザイン科に改称。

2006年(平成18年) - 園芸デザイン科と造園デザイン科を園芸科に、食品科学科を食品科に改組。動物科を設置。

2008年(平成20年) - 創立100周年を記念して「100周年記念講堂」が落成。特別校舎棟が落成。

2015年(平成27年)7月18日 - 愛知県立安城農林高等学校と友好校の協定書を締結[3]

2020年(令和2年) - 日本テレビ系列のバラエティー番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の企画に協力し、校内に水田の設置を許可。害虫対策や稲刈りなどの農作業に生徒が協力[4]

象徴
植樹

イチョウ並木
正門から本館までの100メートルもあるイチョウ並木は、1912年(大正元年)頃植えられたもので、樹齢は90歳を越えている。

徳川家光(第三代将軍)遺愛の松(五葉松)
「校内設備」にも挙げられているが、本校創立に際し、東京府が購入し本校に移管されたもの。これを見に来る一般見学者も少なくはない。日本最古の三つの盆栽のうちの一つで、もう一つも本校に、三つ目は宮内庁所蔵。上記購入時には五葉松盆栽2鉢、赤松盆栽1鉢が購入された。この3鉢が現在も栽培管理されており、徳川第三代将軍家光公遺愛のものはそのうち2つの五葉松盆栽である。

ハナミズキ
1912年(大正元年)に当時の東京市長から、ワシントンに3,000本の桜が贈られ、その返礼として、1916年(大正5年)に東京市に白花のハナミズキが40本贈られた。そのうちの2本が本校に植えられている。ワシントンに送った桜の内いくらかを、当時の東京府立園芸学校が管理していたため送られたものである。どれほどの桜が管理されていたかは不明。(という説もあるが、アメリカ・ワシントンDCにあるポトマック河畔に植えるために上記の3,000本の桜を輸出する任務に就いたのが当時の東京府園芸学校長であった熊谷八十三であり、その縁から東園にハナミスキが贈られたという説もある。無病状態の清潔なサクラの苗を熊谷が準備したとき、彼は東園の校長ではなく、興津園芸試験場の技師であった。)上記サクラとハナミズキ交換交流の成立経緯は、アメリカ人女性作家エリザ・シドモア氏が日本の桜並木を母国アメリカのポトマック湖畔に再現する着想を得たことに始まる。その計画を当時のアメリカ大統領夫人のヘレン・タフト氏が発展させ、アメリカ側の受け入れ機運が高まった。当時の東京市長・尾崎行雄氏が日本側の寄贈準備を進め、当時アメリカで生化学事業を成功させ日米友好のための団体・日本クラブThe Nippon Clubの初代会長を務めた高峰譲吉氏が在米日本人実業家より寄付を集め資金的な基盤を整えた。まず2000本の桜を輸出したが、アメリカ入港時の検疫で病虫害が見つかり滅却処分された。2回目の輸出では万全を期すため、苗木の育成には綿密な準備が図られた。植物学者の三好学氏が荒川の堤沿いに植えられたものから穂木を採る品種を選び、台木は線虫罹患の危険性のない兵庫県川辺郡(現:伊丹市)で育成され、興津農業試験場で接ぎ木され、苗木が仕立てられた。この際実務を担当したのが都立園芸高校初代校長の熊谷八十三だった[5]

ナシ
菊池秋雄博士が本校在職中、1916年(大正5年)に日本梨の在来種を人工交配し、その結果、数種の優良新品種を得た。その中の菊水八雲は、当時の梨栽培業者から歓迎されて、全国的に栽培されるに至った。のちに、豊水幸水新水のもとになった。現在は、この3品種は合わせて「三水」とも呼ばれている。

スクールカラー
スクールカラーは紫である。これは、校旗や野球部の帽子などに反映されている。
校歌


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