この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "東京都立北園高等学校"
東京都立北園高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度45分1秒 東経139度42分57.8秒 / 北緯35.75028度 東経139.716056度 / 35.75028; 139.716056座標: 北緯35度45分1秒 東経139度42分57.8秒 / 北緯35.75028度 東経139.716056度 / 35.75028; 139.716056
過去の名称東京府立第九中學校
東京都立第九中學校
東京都立第九新制高等学校
国公私立の別公立学校
設置者 東京
設立年月日1928年
共学・別学男女共学
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
学校コードD113299904056
高校コード13140H
所在地〒173-0004
東京都板橋区板橋4-14-1
外部リンク公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示
東京都立北園高等学校(とうきょうとりつ きたぞのこうとうがっこう)は、東京都板橋区板橋四丁目に所在する東京都立高等学校。 1928年(昭和3年)に開校した東京府立第九中学校を前身とする都立高校。 戦前は他の府立中学と同様に忠君愛国教育や軍隊式教育を採用していたが、その中でも軍国主義的傾向が強かったのが九中であったと言われている。 第四学区で東京都立竹早高等学校とともに東京都立小石川高等学校に次ぐ位置にあり、1950年代から1960年代にかけては10-40名前後を東京大学、100名以上を早慶に輩出していた。グループ合同選抜制度時代には42グループの首位であった。現在は都から進学指導推進校に指定されている。 新制高校に改組された時からの私服校であり[2]、制服が無い由来としては、戦後すぐで物資も少なく、父母に負担をかけたくないということと、「北園生なら各自の良識に委ねて大丈夫だろう」と判断されたためである。これは当時では非常に珍しいことであった。 前述した制服が存在しないことや生活面を細かく規定する校則が存在しないなどの、生徒の自主性を重視する校風が特徴である。これは戦前の軍国主義的な教育を行ったことへの反省から、「生徒の中に芽生えたもの、自主独立の気風を、傷つけることなく育て上げる」(関根俊雄「校史草案」より)という当時の教員らの方針によるもので、この方針は70年以上たった今でも受け継がれている。 この他、新制高校になった当初は、ホームルーム担任を生徒が自由に選択できる指導教官制や、受講科目と教科担当教員を生徒が選択し、時間割を自由に設定できるモザイク制といった全国でも類を見ない制度も導入されていたが、1959年に廃止された。 現在は大学受験への取り組みが熱心に行われており、国公立大学・難関私立大学合格を目標とした進路指導を実施している。放課後や長期休業中に進学補習が開かれるほか、高3で小論文指導、高1・2で英語と数学の勉強合宿(自由参加)を実施している。また、週1回2時間行われる第二外国語教育に熱心なことでも知られている。 2010年度より、九曜会(同窓会)などの協力のもと、長野県や信州大学と提携した「信州北園プロジェクト」を開始する。プロジェクトでは、難関大学に現役合格できる学力と、未来を切り開く人間力の育成を目指して、長野県にて、勉強合宿や大学のキャンパス訪問、信州の森体験、森林保全合宿などを実施している[3]。 校名は「城北の学園」に由来する。 昇降口前の中庭にヒイラギの木が2本植えられており、北園のシンボルとされている。その歴史は古く、府立九中創立時に1本の雄の苗木を練馬区某所にある神社の社務所から持ってきて植えたのが始まりとされる。その後、共学化された際に「雄だけだと可哀想」と隣に雌のヒイラギ(正確には雌のヒイラギモクセイ)を植え、現在の様相となった。北園高校と名称変更されたのちに「この木のように立派に育ってほしい」との願いを込めてシンボルとされるようになり、校歌の歌詞や後述する文化祭の名称にも採用された。 校地周辺を含めて、かつて加賀藩前田家の広大な庭園を含む下屋敷が存在し、現在の校地は下屋敷の建物があった場所と言われている。しかし下屋敷がなくなった維新後は「三五ヶ原」「三五っぱら」と呼ばれる、荒れ果てた野原であったとされている。この名称は三五商会という会社の所有地であったことに由来し、後援会「三五会」の名前の由来にもなっている。創立当時の住所は東京府北豊島郡板橋町大字金沢。
概要
特色[1]
シンボル
校地の由来
沿革
1928年 - 4月、東京府立第九中學校(とうきょうふりつだいくちゅうがっこう)として開校。 仮校舎を板橋第四小学校内に設置。
1932年 - 10月、校舎落成式挙行。
1933年 - 11月、図書館開館。
1936年 - 2月、戒厳令のため臨時休校。
1937年 - 夜間中学(後の定時制課程)開校。
1942年 - 府立第二十四中学校が校舎内に併設。のちに合併。
1942年 - 夜間中学が尚道中学・東京都(府)立第九中学校二部と名称変更。
1943年 - 7月、都制実施により、東京都立第九中學校と改称。
1948年 - 4月、学制改革により、東京都立第九新制高等學校となる。
同年 - 5月、定時制課程である、東京都立第九新制高等学校滝野川分校設置(北区立滝野川第二小学校内)。
1949年 - 4月、女子生徒26名が入学し、男女共学開始。
1950年 - 1月、東京都立北園高等学校と改称、新校歌制定。
1952年 - 学区合同選抜制度導入。
1959年3月
滝野川分校が本校に吸収合併される。
指導教官制(前述)、完全に廃止
1960年 - 7月、プール完成。
1961年 - 8月、霧ヶ峰北園寮が落成(2009年使用停止[4])。
1967年 - 学校群制度導入。
1969年 - 学生運動が高校にも波及し、闘争で4名が逮捕される。また、9月の中間テストでは生徒10数名が教室をバリケードで封鎖し、テストをボイコット。約1ヶ月間授業が全面停止されたが、11月に行われた生徒大会で解決。
1982年 - グループ合同選抜制度導入。
1989年 - 1月、現校舎竣工。
1992年 - 4月、コンピューター教室完成。
1994年 - 単独選抜制度導入。
2003年 - 3月、定時制課程が閉課程となる。閉校式典挙行。
Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef