「三田高等学校」はこの項目へ転送されています。1948年度に「兵庫県立三田高等学校」と称した学校の後身については「兵庫県立有馬高等学校」をご覧ください。
東京都立三田高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分8.7秒 東経139度44分36.4秒 / 北緯35.652417度 東経139.743444度 / 35.652417; 139.743444
東京都立三田高等学校(とうきょうとりつ みたこうとうがっこう)は、東京都港区三田一丁目に所在する東京都立高等学校。 1923年(大正12年)に東京府立第六高等女学校として開校した。校章の六枚の花弁をもつ「なでしこ」は、第六高女に由来している。開校の翌年、筑後久留米藩・有馬中務大輔の大名屋敷の跡地である現在の敷地に新校舎を建設し移転した。そのため現在も当時の築山の名残として「オセンチ山」と呼ばれる丘が校庭に残っている。 大正自由教育運動の気運のさなか、開校当初から近代的な英才教育を行う女学校として知られ、開校の翌年に洋服を校服とし、初年度から修学旅行を行っている。また、1926年(大正15年)にはスキー教室を実施。1931年(昭和6年)には女学校では珍しく室内プールを設置した[1]。この室内プールは女生徒の水着姿を人前に晒さないことが目的であり、前年に設置された屋外プールに建物を付け加えただけの加温設備を持たないものであったが、改築を経て現在の室内温水プールに至っている。また、体育教育に力を注ぎ、開校当初から運動会(現在の体育祭)を芝公園で実施し、1929年(昭和4年)からは明治神宮競技場(後の国立霞ヶ丘競技場)で行った。一時は狭い校地の中にある校庭で体育祭が行われていたが、現在は大井ふ頭中央海浜公園陸上競技場で行われている。 1929年(昭和4年)には校内に夜間部(後の定時制)として私立の第六高女夜学校が設立され、1936年(昭和11年)東京府立第六高女夜学校、1941年(昭和16年)へ東京府立洗心女学校と改称した。 戦後の学制改革を経て、1950年(昭和25年)1月に東京都立三田高等学校と改称し、同年4月に男女共学・夜間定時制併置の新制高等学校に改組された。 1960年代の学生運動が盛んであった当時、多くの都立進学校が混乱に陥いる中、生徒教師の協力のもと、ほぼ通常通りの授業が行われた数少ない「無紛争校」であった。 もともと旧第一学区の女子ではトップクラスの受験難易度であったため[2]、1967年に学校群制度(旧11群)が制定された時、進学トップ高の日比谷高校や九段高校(この2校は女子の募集定員が少ない)と同じ群に編成された。1982年に学校群制度が廃止されて始まったグループ合同選抜制度制定以降は、日比谷に次ぐ位置にあった。
概要