東京緑地計画(とうきょうりょくちけいかく)とは、1939年(昭和14年)につくられた大東京における緑地帯、景園地等を含む総合的な緑地計画。日本の都市計画および公園史上初めての大規模かつ具体的なマスタープランである。なお、本ページでは、東京緑地計画を端緒とした日本各地の大緑地についても述べる。
概要
戦前期に大都市の膨張に対処するため地方計画(regional planning)という広域都市計画の考え方、計画論が先進国で浸透し、1924年(大正13年)オランダ・アムステルダムで現在のIFHP(en:International_Federation_for_Housing_and_Planning
東京緑地計画の中で最も重要な計画は、東京市の外周に緑地を設置する環状緑地帯計画(1939年(昭和14年)4月策定)で、この緑地帯から石神井川、善福寺川など都市河川沿いに設置された緑地帯が市街地に貫入するように設定されている。このような放射環状の緑地帯が当時の先進国の都市計画では理想形とされていた。環状緑地帯を計画した区域は民有地の田畑・山林であったが、その拠点部分については緑地として都市計画決定し実際に買収し、整備された。その他の環状緑地帯は法的根拠が与えられていなかったが、1941年(昭和16年)9月の防空法改正に伴う空地の指定制度創設により、東京では1943年(昭和18年)に、東京緑地計画の環状緑地帯を継承する形で防空法に基づく空地(空地帯:内環状・外環状・放射、各幅員200?300m、防空空地:一箇所1000坪程度)が指定された[6]。
防空法に基づく空地は1946年(昭和21年)1月の防空法廃止に伴い法的根拠を失うことになる。1946年(昭和21年)9月に交付された特別都市計画法(昭和21年9月10日法律第19号)では、第三条で(主務大臣は)特別都市計画の施設として緑地地域を指定することができることを規定された(その後昭和29年特別都市計画法が廃止されてもなお,緑地地域については土地区画整理法施行法附則第2 項によって,当分の間その効力を有するものとされた。)[7]。戦災復興院は1946年(昭和21年)9月27日に「緑地地域計画標準」を発し[8]、緑地地域は市街地の外周部と内部に放射環状にとり「防空空地帯を指定された都市では、その指定区域を根拠として」指定するように指示している。しかし、大阪、名古屋など防空空地帯を指定していた都市は緑地地域への切り替えをせず、東京のみが東京緑地計画以来のグリーンベルト構想を堅持した。1948年(昭和23年)8月、防空空地帯を継承する形で緑地地域(面積18,010ha)が都市計画決定された。
ドッジラインによる見直し等による影響を受けて東京の戦災復興都市計画は縮小されていき、また、緑地地域では違反建築が続出し、その実態を追認するかのように指定解除の措置がとられていく。1969年(昭和44年)の新・都市計画法施行の際には、東京の緑地地域そのものが全廃されている[9]。 1940年(昭和15年)4月の都市計画法改正により、緑地は都市施設のひとつとして位置づけられ、環状緑地帯の拠点部分は都市計画緑地として都市計画決定され、都市計画事業として土地を買収し整備される。1940年(昭和15年)は紀元2600年に相当し、東京府はその記念事業という名目で砧、神代(現在の調布市)、小金井、舎人、水元、篠崎(現在の江戸川区)の6箇所に1箇所約100ha前後という広大な面積をもつ大緑地を造成することにし、府会で事業予算が可決され、内務省も国庫補助をすることになる。立地は「帝都防衛」と「市民の保健、休養に利用して体位の向上」の観点から、交通の便や緑地同士の間隔も考慮して選択された[10]。公園緑地の整備に対する国庫補助は帝都復興事業以降では大蔵省が初めて認めたものである。 その後1942年(昭和17年) - 1945年(昭和20年)にかけて、22箇所が追加され、緑地は合計28箇所が都市計画決定されている。東京緑地計画の成案に軌を合わせ大阪、名古屋、神奈川などにおいても環状緑地帯構想の具体化が図られ、1940年(昭和15年)から1943年(昭和18年)にかけて大緑地が次々と都市計画決定され、続いて用地買収が開始された。
大緑地