東京湾
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ベトナムのトンキン(東京)湾については「トンキン湾」をご覧ください。

東京湾
東京湾の衛星画像(2002年)
人工衛星NASA Earth Observatory」による
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座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度25分 東経139度47分 / 北緯35.417度 東経139.783度 / 35.417; 139.783座標: 北緯35度25分 東経139度47分 / 北緯35.417度 東経139.783度 / 35.417; 139.783
上位水域太平洋
日本
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東京湾(とうきょうわん)は、日本関東地方にある、南に向けて太平洋に開けたである。
呼称葛飾北斎名所絵揃物『冨嶽三十六景』の「武陽 佃嶌」[注釈 1]

現在の「東京湾」という呼称は、明治維新後に江戸が「東京」と改称されたことに由来する[注釈 2]地形図では「東京湾」、海図では「東京海湾」の表記であったが、最近になって「東京湾」に統一された[1]。なお、近世の東京湾を指すとされる「江戸湾」という語は近年になって造られた語(造語)であり、明治時代以前にあった言葉ではない[2]

江戸時代には、「江戸前」や「江戸前海」などの呼び名があった。江戸前とは「漁場」を示す言葉であり、主に沖の漁場を指した。江戸前海とは房総沖などと並ぶある範囲を持った海域のことで、品川沖から葛西沖あたりまでを包括していた[2]。しかし、湾全体は単に(武蔵相模上総下総の)内海、あるいは裏海のように呼ばれていた[1]。その後の幕末や明治初期の記録文献類に登場する現在の東京湾に相当する湾の名称もほとんどが「内海」となっている。

しかし「内海」という言葉は江戸時代以前に北東の下総常陸国境付近に存在していた「香取海」に対しても用いられるので、昨今では区別のため、古代以前の東京湾のことを「古東京湾」や「奥東京湾」、中世から近世までの湾を「江戸湾」「江戸内海」などと呼称することが多い[3]
地理
基本データ[注釈 3] [4]

湾口幅:20.9km

面積:1,380km2

湾内最大水深:700m

湾口最大水深:700m

閉鎖度指標:1.78[注釈 4]

海域の位置する都道府県:千葉県東京都神奈川県

総量規制区域。環境基準類型指定水域。

概説東京湾の範囲[注釈 5] 海底地形図上の東京湾海底谷[注釈 6]

千葉県東京都神奈川県に面し、浦賀水道[注釈 7]が湾口となっている。

現代行政上、広義では、千葉県館山市洲埼灯台から神奈川県三浦市剣埼灯台まで引いた線および陸岸によって囲まれた海域を指す[4][5]

狭義には三浦半島観音崎房総半島富津岬を結んだ線の北側[注釈 8]、広義には三浦半島の剱崎と房総半島の洲崎を結んだ線より北側、すなわち浦賀水道[注釈 9]を含んだ海域を指す。

狭義の海域については、気象庁津波予報区としては「東京湾内湾」と称する[6][4]。狭義の東京湾の面積は922 km2。広義の面積は、1,320 km2 である。

内湾部の水深は比較的浅く、富津岬沖には「中ノ瀬」と呼ばれる台地が広がる。

江戸時代から現代にかけて、沿岸や浅瀬が相次ぎ埋め立てられた。これにより湾内には明治・大正期に造られた海堡(かいほ)を始め、70を超える人工島がある[7]。これに対して、自然島は横須賀市沖の猿島及び鋸南町沖の浮島など決して数は多くない。

関東平野が海と接する湾奥部は、江戸時代には幕府のお膝元である江戸が栄え、東京奠都以降、現代に至る首都圏が形成されている。東京湾の各港湾は、首都圏約4000万人の生活や経済を支える物流の要を担っている[8]

元々遠浅で砂地の海岸が多かったため、各所で埋め立てが進められてきた。埋立地の大部分は、工業地帯もしくはベッドタウンとして利用されている。現在残されている自然の砂浜は、千葉県の木更津市以南のみとなっている。

埋立地を利用した港湾が点在し[注釈 10]、横須賀港には米軍横須賀基地海上自衛隊横須賀地方隊の基地がある。港湾近くで発展した京浜工業地帯京葉工業地域は、加工貿易で国を富ませてきた日本の心臓部である。バブル景気の頃から、オフィス街臨海副都心幕張新都心)も開発され、バブル崩壊後は、超高層マンションの建設ラッシュや大型ショッピングセンターの新規オープンなどが相次ぐ。
東京湾海底谷

外湾部では陸から離れた沖[注釈 11]の海底は急激に深くなっており、水深500m以上に達する東京湾海底谷が認められる[9]。この海底谷は西方の相模トラフへ合流する。

河川を通じて東京湾に流れ込んだ有機物沈殿しており、栄養が豊富な深海という特異な環境が東京(江戸)の都市化とともに形成されてきた。そのためメガマウスミツクリザメなど世界的に希少な深海魚が捕獲されることがある[10]
歴史1926年時点の関東平野地図に、縄文海進時代の海進領域(斜線部)を重ねた地図[注釈 12]

12万年前は現在より海水面が高く(下末吉海進)、房総半島は島であった。この頃の湾を「古東京湾」と呼ぶ。

旧石器時代最終氷期にあたり、氷河が発達していたため海面が現在より著しく低く、浦賀水道付近以北は陸地だった。渡良瀬川[注釈 13]利根川とが現在の大宮台地を挟んで東西側を南流し、現在の内湾の中央付近で合流した後[注釈 14]、太平洋への河口へ向けて流れた[注釈 15][11]。これらの河川は大規模な峡谷を作った。

6000年前には縄文海進による海水面の上昇があり、関東地方の海水準は現在より3 - 4mほど高かった[12][13]。東京湾は北へ湾入し、渡良瀬川河道では群馬県邑楽郡板倉町付近まで、利根川河道では埼玉県川越市付近まで湾入したことが貝塚分布から裏付けられる。この頃の東京湾を指して「奥東京湾」と呼ぶ[注釈 16][14][15]

3000年前から縄文海退が始まり、渡良瀬川利根川が沖積層を作り湾入部・峡谷を埋めていった[注釈 17]

その頃より、利根川は流路を変え、大宮大地の東の渡良瀬川河道の地帯を流れるようになり、東京湾へ注ぐこの河道の一帯は広大な氾濫域・低湿地となった。
有史以降一勇斎国芳(歌川国芳)の名所絵揃物『東都富士見三十六景』の「佃沖 晴天の不二[注釈 18]

かつては武蔵国下総国とが接する境界は広大な低湿地帯であり両国間は通行に適さなかった。したがって古代の交通路は相模国三浦半島と上総国房総半島との間の東京湾を渡っている[注釈 19]鎌倉時代にも交通路として利用されていた資料が残る。

中世には湾内で海賊衆も活動し、戦国時代には後北条氏里見氏水軍の争いの舞台にもなった。

江戸時代には徳川家康以降、江戸幕府によって沿岸の埋め立てが進み[16]菱垣廻船樽廻船などの和船による水運が行われ、後期には外国船来航に対する湾岸防備のために品川沖に台場が築かれている。

長らく鎖国状態にあったが、黒船来航の後に日米修好通商条約が結ばれた結果、横浜港が開港された。1945年昭和20年)9月2日には、東京湾[注釈 20]に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」甲板上で連合国各国代表が見守る中、日本政府代表が降伏文書に署名して第二次世界大戦が終結している。

昭和30年代には、産業計画会議による「東京湾2億の埋め立てについての勧告 NEO TOKYO PLAN」[17]や、丹下健三による「東京計画1960」[18]など湾を大規模に利用する計画があった。
生物と環境保全「江戸前」も参照

東京湾(江戸湾)は多種・大量な魚介類を産し、利根川東遷事業による生態系や環境面における東京湾への影響は明らかになっていないものの、江戸時代までは世界最大の人口を誇った大都市江戸の人々の胃袋を満たしてきた。

しかし、とくに明治時代以降、沿岸や流入河川の流域では都市化・工業化が進み、埋立地拡大に伴う干潟など自然海岸や浅瀬の減少、水質悪化が深刻になった。特に1970年代に環境汚染はピークを迎え、海の生き物は激減、一時は「死の海」とまで呼ばれる状態にあった[19]


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