東京湾要塞
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東京湾要塞(とうきょうわんようさい)とは、大日本帝国の首都東京の入り口である東京湾周辺の防衛を目的に設置された要塞三浦半島および房総半島に設置された32の砲台[1]海堡(人工島)で構成され、これらの施設を総称して東京湾要塞と呼ぶ。管理は陸軍の東京湾要塞司令部が行い、太平洋戦争時は第12方面軍隷下の東京湾兵団に属していた。明治時代に建設が始まり、逐次設備を増強しつつ太平洋戦争の終了時まで運用されたが、沿岸砲から敵の艦船や上陸部隊を砲撃することはついになかった[1]

戦後、跡地は民間に払い下げられるなどしたが、千代ケ崎砲台跡神奈川県横須賀市)の一部は海上自衛隊が通信施設として2013年(平成25年)まで使用した[1]
概要

欧米列強の船舶が日本列島周辺に出没するようになった江戸時代後期に海防論が高まり、江戸幕府幕末江戸前面に砲台(品川台場)整備に着手した。

明治政府は国防強化を引き継ぎ、1880年明治13年)、東京湾に侵入する敵艦艇を撃退し、東京など湾岸各地および横須賀軍港を防衛する目的で、軍事施設群の建設を始めた。最初は清国北洋水師、次にロシア帝国海軍太平洋艦隊の来攻を想定しての施設であった。主要な設備は、千葉県館山市洲崎から富津市富津岬にかけての沿岸と、浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、さらに3つの海堡からなる。運用期間は約60年にわたり、その間には日清戦争日露戦争、太平洋戦争といった大規模な戦役があり継続的に設備の強化が行われたものの、一度も実戦を経験することなく太平洋戦争での終戦とともにその役目を終えた。現在では海堡を含む一部の砲台跡が残され、観光資源として活用されている[1]
歴史

東京湾要塞は1880年(明治13年)の観音崎砲台着工から建設が始まった。1894年(明治27年)の日清戦争勃発直前に「臨時東京湾守備隊司令部」が置かれ、翌1895年(明治28年)の要塞司令部条例発令と同時に「東京湾要塞司令部」が正式に発足。司令部は横須賀市上町に置かれた。東京湾で最も幅が狭い東京湾湾口部(富津岬・観音崎間)が防衛線とされ、日清戦争までには横須賀軍港周辺の8か所、観音崎・走水地区の15か所、富津岬の1か所、第一海堡の累計25か所の砲台が完成していた。ただし、日清戦争当時は未完成の設備が多い上に砲弾備蓄は少なく、十分な防衛態勢が整っていたわけではなかった。

日清戦争後には防御計画が策定されて要塞を構成する各砲台の役割が明確化され、砲弾の備蓄も進められた。日露戦争では宣戦布告前の奇襲に備え、東京湾要塞は1904年(明治37年)2月6日から戦闘態勢に移行した。同年7月にはロシア帝国海軍のウラジオストック艦隊が東京湾外で活動したこともあり厳重な臨戦態勢がとられるが、艦隊は東京湾に接近することなく帰投したためこれはほどなく解除されている。なお、旅順攻囲戦においては、東京湾要塞が持つ28サンチ榴弾砲のうち米が浜砲台より6門、箱崎高砲台より8門、他4門、弾薬が旅順へと送り込まれ、第二回旅順総攻撃以降ロシア軍陣地攻撃・旅順港砲撃に使用されている。

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では要塞司令部の建物や各所の砲台・倉庫が被害を受けている。特に第二・第三海堡の被害は大きく、修復は困難と判断されて両海堡はそのまま除籍となった(第三海堡は完成した後、わずか2年で除籍となっている)。第一海堡は浅い海域に造成されていたため被害は少なく、震災後も運用が継続された。また、震災で通信設備が破壊されたことから要塞施設間の通信には伝書鳩が活用された(その後も鳩による通信は太平洋戦争終結まで利用され、要塞施設では通信線途絶時への備えとして伝書鳩を飼育していた)。復旧計画には被害を受けた砲台の復旧だけでなく新砲台の建設も織り込まれ、震災復旧としての要塞整備は1941年度(昭和16年度)まで続けられた。

昭和時代に入ると、軍縮によって廃艦となった海軍主力艦の大口径艦砲が海軍から無償で移管・設置されるようになる(「要塞砲塔加農砲 (日本軍)」も参照)。


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