株式会社東京機械製作所
Tokyo Kikai Seisaksho, Ltd.種類株式会社
市場情報東証スタンダード 6335
株式会社東京機械製作所(とうきょうきかいせいさくしょ)は、東京都に本社を置く機械メーカー。長く輪転印刷機製造を主力事業としてきたが、近年は無人搬送車(AGV)を主力製品とするファクトリーオートメーション事業や加工組立事業に注力している。日本国内では新聞輪転印刷機の分野で最大手企業である。「TKS」のブランド名を使っている。 明治7年(1874年)1月,政府は内務省を新設して勧業・警保・戸籍・駅逓・土木・地理の6寮を設置し、それまで大蔵省租税寮の管轄下にあった勧業・勧農事業を内務省勧業寮に移管した。内務省勧業寮農務課が、明治5年に開設された東京の内藤新宿試験場内に設置され,同試験場をもその管轄下に置いた。この内藤新宿試験場に付設された農機具工場が同社の起源である[2][3][4]。 明治12年(1879年)5月、内藤新宿試験場を廃止し、政府は広大な面積の植物栽培区域を宮内省に移管して植物御苑とするとともに,農機具製造部門など事業の多くを芝の三田四国町に開場した「三田育種場」(明治10年開場)に引き継いだ。植物御苑は現在も東京の一角に緑陰を広げる「新宿御苑」になっている。翌明治13年、内藤新宿試験場から引き継いだ農機具製造部門は、三田育種場から分離独立して「三田農具製作所」と改められた[5][6][7]。 明治7年の創業から2年間の内藤新宿時代に生産した農機具は四百五十点を数え、明治21年(1888年)の民間払い下げまでには、数千点の製品を農村に提供したものと推測される。農機具のほか風車、水車、馬車、馬具、ポンプ、製缶機械なども生産品目に入っていた[8][9]。 明治21年(1888年)、三田農具製作所は子安峻(読売新聞初代社長)らに払い下げられ民営化された。子安峻が初代業主となり、翌明治22年(1889年)に「三田機械製作所」と改称した[10][11]。 当初は農機具、ボイラー、ポンプ、タービン水車製造を目的としたが、やがて鉄道車輌製造に進出、明治期の鉄道車両(客車)製造では平岡工場、日本車輌製造に続く規模であったが日清戦争後の恐慌期には注文は激減し鉄道車両製造は撤退を余儀なくされる。その後印刷機械、煙草製造機械などの製造に活路を開いた。近年では輪転機に加え、インクジェット方式の印刷機も製造している。
歴史
沿革
1874年(明治7年) - 前身である内務省勧業寮農務課工場が創業。
1879年(明治12年) - 三田四国町の三田育種場へ移転。
1880年(明治13年) - 三田育種場から分離独立して三田農具製作所と改称。
1888年(明治21年) - 三田農具製作所が子安峻(読売新聞初代社長)他に払下げ。民営化。
1889年(明治22年) - 三田機械製作所と改称し各種農機具、鉄道馬車等を製作。
1893年(明治26年) - 東京機械製造株式会社[12]と商号変更し鉄道車輌、蒸気機械、煙草製造機、理化学器械等を製造[13]。
1906年(明治39年) - 国内メーカーとして初の輪転機を完成。
1911年(明治44年) - 株式会社東京機械製作所と商号変更。
1949年(昭和24年) - 東京証券取引所、大阪証券取引所上場。
1985年(昭和60年) - 玉川製造所技術センターと本社ビル竣工。
2004年(平成16年) - ハマダ印刷機械株式会社の輪転機事業を買収し、三重県伊賀市に株式会社伊賀マシナリーを設立。