東京宝塚劇場
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この項目では、東京都千代田区有楽町にあった初代劇場(映画館)について説明しています。

この劇場を建設した東宝の前身である企業については「東京宝塚劇場 (企業)」をご覧ください。

この劇場の跡地に建った2代目劇場を保有するビルについては「東京宝塚ビル」をご覧ください。

この映画館の跡地に建った2代目映画館については「TOHOシネマズスカラ座」をご覧ください。

東京宝塚劇場
Tokyo Takarazuka Theater
戦前の初代東京宝塚劇場こと宝塚会館

情報
通称宝塚会館
完成1933年12月31日
開館1934年1月1日
閉館1997年12月29日
客席数2778
延床面積15817m²
用途宝塚歌劇団の公演
運営東宝株式会社
所在地101
東京都千代田区有楽町一丁目1番3号
宝塚会館1階
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分22.8秒 東経139度45分33秒 / 北緯35.673000度 東経139.75917度 / 35.673000; 139.75917 (東京宝塚劇場)座標: 北緯35度40分22.8秒 東経139度45分33秒 / 北緯35.673000度 東経139.75917度 / 35.673000; 139.75917 (東京宝塚劇場)
最寄駅該当項目を参照
外部リンク宝塚歌劇団公式サイト 劇場案内
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東京宝塚劇場(とうきょうたからづかげきじょう、英語: Tokyo Takarazuka Theater)は、1934年1月1日から1997年12月29日まで東京都千代田区有楽町1-12にあった宝塚歌劇団の東京での本拠地の劇場、および東宝が保有していた映画館。別名:宝塚会館。跡地には2代目劇場を保有する東京宝塚ビルが建っている。
沿革

1932年12月1日:地鎮祭挙行

1933年12月29日:修祓式挙行

1934年1月1日:宝塚少女歌劇の常打ち劇場として開場。

1934年9月21日:5階に東宝小劇場が開場
[1]

1940年4月16日:4階に東宝四階劇場が開場。こけら落としは『土と兵隊』を上映[2]

1944年3月1日:決戦非常措置要綱により閉鎖[3]し、陸軍本部経理部に貸借[4]

1945年9月18日:終戦により劇場として復帰、「東宝芸能大会」を開催[5]

1945年12月24日:GHQにより接収[5]

1946年2月24日:「アーニー・パイル劇場」(第8軍専用)となり[5]、日本人は観客としての出入りが禁止される。

1953年6月24日:東宝、アーニーパイル返還訴訟に勝訴するも強制使用続く[6]

1955年1月27日:接収解除[7]

1955年4月15日:旧名に復帰して開場。再開上演の初演は『虞美人[6]

1955年7月14日:東宝四階劇場が日比谷スカラ座となる。こけら落としは『戦略空軍命令』(アンソニー・マン監督)[8]

1955年8月1日:5階の旧東宝小劇場が東宝演芸場として新装開場[9]

1958年2月1日:舞台効果の火が延焼して火災が発生。劇団員3人が死亡、16人が重軽傷[10]。東宝演芸場とスカラ座は類焼を免れる[11]

1958年:3月29日修復再開場[11]

1997年12月29日:建て替えの為一旦閉場。

1998年1月18日:残った日比谷スカラ座も閉場。最後の上映作は『エアフォース・ワン』(ウォルフガング・ペーターゼン監督)[8]

2000年12月16日:跡地に東京宝塚ビルがオープン。

概要

阪急電鉄小林一三が設立した株式会社東京宝塚劇場のもと、竹中工務店が設計、施工の主宰で、鷲尾九郎が平面を、石川純一郎が立面を、そして青柳貞世が構造を担当し、1年5か月という突貫工事で1933年12月31日に完成、翌日の1934年1月1日に開場、同時に宝塚少女歌劇団も東京に進出した。

東宝直営で、商業演劇、歌手芝居、ミュージカル等東宝演劇の中心地として機能しており、本来メインとなる宝塚歌劇は年数回(改築前数年間は年7か月)の公演だった。1956・57・59・61-72年はNHK紅白歌合戦の会場としても使用、またマリオ・デル=モナコティート・ゴッビの共演で知られる第2回NHKイタリア歌劇団での『オテロ』の公演もここで行われた。なお、五階の小劇場は演芸の「東宝名人会」が常時催され、戦後東宝演芸場と改称、選りすぐられた寄席芸人を一堂に揃えた、東京演芸界の殿堂であったが1980年8月に閉鎖した。代わりに日劇から日劇ミュージックホールが移転した。「アーニー・パイル劇場」(1946年から1949年、土門拳撮影)

第二次世界大戦中は、日本劇場とともに風船爆弾工場として使用された。一方で、戦争が終わるとGHQにより接収された(1945年12月24日-1955年1月27日)。異文化の国に駐留する兵士達の慰問を目的としたアーニー・パイル劇場 (Ernie Pyle Theatre) と改称、日本人は観客としての立入が禁止された。アーニー・パイルという名前は1945年4月18日、沖縄県伊江島の戦闘で殉職した従軍記者に因んだものである。

1955年に接収が解除され、星組公演『虞美人』で公演が再開された[12]。ところが1958年2月1日東宝ミュージカル『アイヌ恋歌』の公演中に演出用の裸火が燃え移り出火、場内設備を焼失するとともに死者3名・負傷者25名を出す事態となった[11][13]

開場以来使われてきた旧劇場は、関東大震災の復興期におけるモダニズム建築の傑作のひとつに数えられていたが、老朽化のため1997年12月29日に一旦閉場し、翌1998年1月から建替え工事を開始、2001年1月1日に新築オープンした(改築中、宝塚歌劇は2か月間帝国劇場で公演を行い、その後TAKARAZUKA1000days劇場開場と共に東京通年公演を開始した)。?(こけら)落とし公演は真琴つばさ(当時)率いる月組の『いますみれ花咲く/愛のソナタ』。


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