東京女子高等師範学校
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「東京女子師範学校」はこの項目へ転送されています。明治末から昭和初期にかけて設置されていた府立の「東京府女子師範学校」については「東京第一師範学校」をご覧ください。

東京女子高等師範学校(とうきょうじょしこうとうしはんがっこう)は、1890年明治23年)3月、東京市神田区(現・東京都文京区[1])に設立された官立の女子高等師範学校である。略称は「東京女高師」(とうきょうじょこうし)、もしくは(所在地にちなみ)「お茶の水」(おちゃのみず)。

この項目では前身である東京女子師範学校(および東京師範学校女子部)などについても扱う。

東京女子高等師範学校
(東京女高師)

創立1890年
(「女子高等師範学校」として)
所在地東京市神田区
初代校長中村正直
廃止1952年
後身校お茶の水女子大学
同窓会桜蔭会

概要

1890年、日本最初の女子中等教員養成機関「女子高等師範学校」として設立され、1908年東京女子高等師範学校と改称した。その前身は、日本で最初の女子教員養成機関「東京女子師範学校」であり、のち東京師範学校に統合されてその「女子部」となり、東京師範が中等教員養成機関たる高等師範学校に改組されたのち、女子高等師範学校として分離独立したものである。

文科・理科・家事科の3学科が設置(1940年時点)され、廃止時点では奈良広島とともに(官立)3女高師の一つであった。

戦後の学制改革により発足した新制お茶の水女子大学の構成母体である。同窓会である「桜蔭会」(おういんかい)はお茶の水女子大と共通の同窓会となっている。
沿革
東京女子師範学校

1873年(明治6年)11月、文部省学監のお雇い外国人ダビッド・モルレーは申報のなかで日本も欧米諸国に倣って女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成することを建言し、文部少輔である田中不二麿もこれに同調して翌1874年(明治7年)1月、三条実美太政大臣に対し「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を提出した。これが承認され、同年3月13日には木戸孝允文部卿により湯島聖堂(旧昌平坂学問所)構内界隈、現在のお茶の水橋たもとに女子師範学校を設置する旨布達が発令、日本最初の(官立)女子師範学校である東京女子師範学校の設立となった(11月に開校)。

設立当時の東京女子師範には、1872年(明治5年)に設立・開校された日本初の女子中等教育機関である東京女学校から相当数の生徒が女子師範予科へと転学しており、当時一般により高い教育・学問を求めていた女性の進学先として見なされていたことが知られる。当時の修業年限は5年で課程は10級に分けられ地理・歴史・物理学・化学大意・修身学・雑書・修辞・書取・作文・数学(算術・代数・幾何)・経済学・博物学・教育論・記簿法・養生書・手芸・画学・唱歌・体操・授業法・実地授業の学科目が講義された。官立師範学校は先行の東京・東京女子に続いて愛知・広島・新潟・大阪・長崎・宮城の6校が大学区制に対応して設立されたが、これら6校は西南戦争後の財政難により1877年(明治10年)から1878年(明治11年)にかけて廃止(代わりに各府県立師範学校・女子師範学校の設立が奨励された)されたため、東京女子師範は東京師範(のちの東京高師筑波大学の前身)と並ぶ2官立師範学校の一方を占めることとなった。

1877年(明治10年)2月には附属幼稚園(お茶の水女子大学附属幼稚園の前身)、翌1878年(明治11年)6月には幼稚園保姆(保母)練習科がそれぞれ設置され、幼児保育・教育およびそれらを担う保母の育成が開始されることになった。さらに1877年2月には附属小学校お茶の水女子大学附属小学校の前身)、1882年(明治15年)7月に附属高等女学校お茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校の前身)が発足し、生徒の実地研修の場としての附属学校園の制度も順次整備されていった。とくに後者は、やはり西南戦争後の財政難で1877年(明治10年)2月に廃止された東京女学校を事実上継承したものであり、全国初の高等女学校として、その後各道府県に設置された旧制の女子中等教育機関のモデルケースとなった。

1883年(明治16年)の教則改正で東京女子師範は師範学校教則大綱中の「高等科」(小学校および中等学校の教員になるための学科)のみを教授することとなったが、財政難による全国各道府県の女子師範学校の(男子)師範学校への統合という流れのなかで1885年(明治18年)6月、東京師範学校に統合されてその「女子部」に改組された。この時東京女子師範の附属学校園も東京師範の附属学校に統合されることとなった(ただし附属高女のみはいったん本校から文部省直轄学校として一時独立する経緯をたどった)。
東京女子高等師範学校

1886年(明治19年)4月、唯一の官立師範学校になっていた東京師範学校が師範学校令に基づき高等師範学校に改組されると、その女子部も「女子師範学科」に改組され尋常師範学校2年修了を入学資格として修業年限を4年とした。1890年(明治23年)、女子師範学科は高師から分離して「女子高等師範学校」として独立、女子師範学校高等女学校小学校教員および幼稚園保母などの養成にあたるものとされた。また附属学校園も高師の附属学校から分離して女高師附設に復帰した。

1897年(明治30年)10月に公布された師範教育令に準拠して女高師は「師範学校女子部及高等女学校ノ教員タルヘキ者」の養成機関として明確な位置づけがなされ、同時に女子中等教育の教員養成機関として適切なものとするべく学科組織も文科・理科・技芸科(のち家事科)の3学科編成となり、これに先だって撰科・専修科も設置された。1908年(明治41年)4月、東京に次ぐ第2の官立女高師として奈良女子高等師範学校が設立されると、東京の女子高等師範学校は東京女子高等師範学校に改称した。以降東京女高師は、奈良女高師と並んで、戦後においては長い間、全国に女子中等教員を供給し続けるとともに官立学校中、女子学生の最高学府と位置づけられ、教員養成のみならず日本の女子教育に対しても多大な貢献をなした。1923年大正2年)9月の関東大震災では東京女子師範以来の御茶ノ水校地が灰燼に帰したが翌年には仮校舎を建設して復帰、1920年代末から1930年代初めにかけては文部省から新校地として給付された大塚の新校地に移転した。

1906年(明治39年)4月、中等教員の補充機関として全国の官立学校・大学に設立された臨時教員養成所が東京女高師内にも附設されることとなり、中等学校卒業者を対象とする修業年限2年の「第6臨時教員養成所」が設置された。こののち臨時教員養成所は全国的に衰退の方向にむかい、第6を唯一の例外としてすべて廃止されたが、第6臨時教員養成所のみは1939年昭和14年)3月の廃止に至るまで若干の制度的改編を経ながらも長く存続した(廃止後、これを継承する機関として「東京女子臨時教員養成所」が設置、戦後の学制改革まで存続した)。

東京女高師の大学昇格運動は第一次世界大戦後の高等教育拡充の動きを背景にした女高師の「師範大学」化構想(1923年(大正2年))まで遡るが、これが目立った動きになったのは第二次世界大戦後であり、1945年(昭和20年)秋には文学部・理学部からなる「東京女子帝国大学」創設案がまとまった[2]。しかし、女子帝大案は文部省での省議は通ったものの、大蔵省は国費に余裕がないとの理由で予算の捻出を拒んだため、旧制度下での昇格は実現せず、東京女高師は新制お茶の水女子大学として昇格し、1949年(昭和24年)同校への包括を経て1952年(昭和27年)廃校となった。
年表
本校
「東京女子師範学校」時代(1873 - 85)

1873年(明治6年)11月 - 文部省学監モルレー、児童教育における女子教員の必要を進言。

1874年(明治7年)


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