東京大神宮
拝殿(2019年7月19日撮影)
所在地〒102-0071
東京都千代田区富士見2-4-1[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分59.94秒 東経139度44分48.73秒 / 北緯35.6999833度 東経139.7468694度 / 35.6999833; 139.7468694 (東京大神宮)
東京大神宮(とうきょうだいじんぐう)は、東京都千代田区富士見二丁目にある神社[1][2]。天照皇大神・豊受大神を主祭神とする[3]。
1880年(明治13年)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が起源であり[2]、一般には「日比谷大神宮」もしくは「日比谷皇大神宮」と称された[4]。皇大神宮は伊勢神宮の内宮であり、現代の東京大神宮は「東京のお伊勢さま」という看板を掲げており、通称ともなっている[5]。
明治政府の宗教政策転換により神宮司庁と神宮教院が分離すると、後者に属していた本神社は、大神宮祠、神宮奉斎会本院と幾度か改名した[2][6]。
1900年(明治33年)5月10日、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の結婚式が宮中三殿で行われる[7]。これを記念に神前式結婚式を創始、現在に伝わる神前結婚式となった[6][8]。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、1928年(昭和3年)に現在地に移転して飯田橋大神宮と呼ばれた[6]。
太平洋戦争終結後の1946年(昭和21年)1月、宗教法人東京大神宮に改称し、現在に至る[1]。 天照皇大神・豊受大神を主祭神とする[3]。天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・倭比売命を相殿に祀る[6][9]。 明治5年(1872年)に開設された神宮司庁東京出張所(伊勢神宮の事務機関である神宮司庁と、東京の教部省との連絡のための出張所)には[6]、明治天皇の勅裁を仰ぎ伊勢神宮の分霊が祀られていた[1]。翌年、その構内に東京神宮教会(伊勢神宮の教導機関である神宮教院の東京支部)が開設された[2]。両所にあった神殿を継承して[6]、明治13年(1880年)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が当社の起源である[2][10]。これは、当時の明治政府が目指していた祭政一致・大教宣布の一環として作られたものであった[2]。 本神社落成時、通りを隔てて中山忠能邸があり、前年12月7日より明宮嘉仁親王(明治天皇第三皇子、後の大正天皇)が生活していた[11]。4月25日、嘉仁親王(当時2歳)は中山忠能、中山慶子(明治天皇生母)、正親町実徳、柳原愛子(大正天皇生母)等と共に日比谷皇大神宮を私的に参拝した[12]。なお中山忠能邸には、病弱だった嘉仁親王の健康を祈り、出雲大社より大国主の分霊も祀られていた[13]。 明治15年(1882年)1月、明治政府の方針転換により神社と宗教活動は分離することとなり、伊勢神宮でも神宮司庁と神宮教院を分離することとなった[6][14]。皇大神宮遙拝殿は神宮教院に属することになった[2]。同年5月、神宮教院が神道神宮派に改称する際に[15]、当社も大神宮祠と改称した[2]。一般には、所在地名から日比谷大神宮や[4]、日比谷皇大神宮と呼ばれていた[16]。明治18年(1885年)3月23日、嘉仁親王(7歳)は有楽町の中山忠能邸から赤坂御用地青山御用邸内に新造された明宮御殿(花御殿)[17]に移転した[18]。その後も幾度か中山忠能邸を訪問したが、その度に日比谷皇大神宮に参拝している[19][20]。 明治32年(1899年)9月、神道神宮派が解散して新たに神宮奉斎会が作られ[15]、当社は神宮奉斎会本院と改称し、神宮奉斎会の本部機関となった[2][6]。
御祭神
歴史