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東京大学運動会 > 東京大学運動会硬式野球部
東京大学運動会硬式野球部東京帝国大学野球部(1925年)
加盟団体東京六大学野球連盟
本拠地東京都文京区向丘1-5-9 一誠寮
創部1917年
監督大久保裕
公式サイト ⇒公式ウェブサイト
リーグ戦成績
リーグ成績最高2位
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東京大学運動会硬式野球部(とうきょうだいがくうんどうかいこうしきやきゅうぶ、英語: The University of Tokyo, Baseball Club)は、東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム。東京大学の学生によって構成されている。同大学には東京大学運動会準硬式野球部など別の野球部も存在するが、硬式野球部のことを指して「東京大学野球部」、「東大野球部」と略称することが多い。 1917年。大学からの認可が1919年9月(初代部長長与又郎)。 なお、東京大学の前身の一つである旧制第一高等学校には1872年創部の野球部があり、黎明期の日本の野球史上重要な位置を占めるが、現在の東大野球部は沿革に一高野球部を含めていない。 当初は京都帝大との定期戦が唯一の目標だったが[注釈 1]、1920年に一高から名投手内村祐之が入学した頃からチーム力は徐々に向上、内村卒業後も有力選手の加入が相次いだ。 1924年6月14日には早稲田大と対戦して敗れたとはいえ7-9の好試合を演じ[1]、同年秋の第1回明治神宮競技大会では東大クラブとして出場し準優勝。これに自信を得た東京帝国大学(以下、本稿においては新制東京大学を含めて東大と略す)は同年末、五大学野球連盟側と水面下で接触[2]。これに対して明大野球部の部長内海弘蔵や早大野球部監督飛田穂洲らが東大のリーグ参加に理解を示したこともあって[注釈 2][注釈 3]、1925年4月15日の連盟会議で加盟が認められ、ここに東京六大学野球連盟が正式に発足した。1925年春は法政大以外の各校と1試合ずつ行い、立教大から勝ち星を挙げる。その年の秋から各校と総当たりで試合を行うようになった。東武雄 当時の学制の事情で、他校が予科を含め5?6年在籍可能だったのに対し、東大は本科3年間のみであり、戦力的には他大学に見劣りする状況が続いていた。そうした中で東武雄(のち終戦前後に戦病死)、清水健太郎(のち東大医学部教授、戦後は同大学野球部監督、六大学野球連盟長)のバッテリーでチーム力が向上して最終的には加入を認められることとなった。しかし、その際、「東や清水の卒業後も戦力を維持すること」という条件がつけられていた。つまり入部難から戦力低下→惨敗の連続(最悪の場合廃部)になることのないよう努めよという、現在の大学野球連盟加盟条件には考えられないような項目が条件としてついていた。 東大が加盟したことにより、東京六大学野球連盟(以下、本稿では東京六大学リーグ戦と略す)のスタートと同時についに早慶戦も復活した(1925年秋季リーグ戦)。最初のリーグ戦で東大は5勝を挙げ4位と健闘を見せた。東立決勝戦(1951年4月23日、武蔵野グリーンパーク野球場) 以降、東大は東京六大学リーグ戦の中で苦戦をし続けることとなる。優勝はなく、3位以上も1946年春季の2位が1回あるのみである[注釈 4]。開幕試合は前季優勝校と最下位校 東大との対戦がほとんど定番化し、連敗・連続最下位など東京六大学リーグワースト記録の多くを東大が占めている。1997年秋季リーグ戦で5位(最下位は立大)になって以来、2023年秋季リーグ戦終了現在まで連続最下位最長記録を更新している。 戦後初のリーグ戦となった1946年春季リーグ戦で、山崎諭(旧制山形高出身)と山崎喜暉(旧制静岡高出身)の「両山崎」らの活躍で開幕から4連勝し、最終戦の慶大に勝てば悲願の初優勝となるチャンスがあった。1点リードされた9回表2アウトランナー3塁、最後のバッター3番山崎喜暉が大島信雄(岐阜商出身)から放った三遊間への渾身の当たりも河内卓司(広島一中出身)にダイビングキャッチされ一塁へのヘッドスライディングも及ばず万事休した。最後の5戦目で0-1で敗れ惜しくも2位となったが当時の東大の躍進は大きな話題となった[6]。また、1960年春季に早大から勝ち星を挙げ、その1敗がたたって早大がリーグ優勝を落とした。これ以外にも数多くの激戦を繰り広げてきた。 1974年秋の法大1回戦で江川卓(1年作新学院高出身)に初黒星をつけ、TV中継(テレビ神奈川)が予定外の放送延長を行い、1981年春季には早大を史上初の連続完封、慶大からも勝ち点を挙げ優勝争いに加わるや「赤門旋風」と話題を呼び、TBSが急遽対立大4回戦をTV中継した。 1993年秋の法大3回戦で、黒川和哉(4年津高出身)と高橋崇展(2年大阪・北野高出身)の継投、法政主戦大崎満雄(4年広島商出身)から肥田雅和(4年桐蔭学園高出身)のホームランと片山英治(3年横浜翠嵐高出身)のツーランが飛び出し、法政も稲葉篤紀(3年中京高出身)が高橋からホームランを放ち追いすがるものの、3-2で勝利し対法政戦で40年ぶりの勝ち点を上げた。 2010年秋、開幕戦初登板以来白星を献上し続けて来た早大の斎藤佑樹(4年早実高出身)に初めて黒星をつけ話題を呼んだ(早大1回戦4-2。勝利投手は2失点完投の1年生鈴木翔太・時習館高出身)。 2013年、日本最初期の野球対抗戦(1886年)[注釈 5]とされる「波羅大学」と東大工学部の前身「工部大学校」当時のユニフォームを双方着用して明治学院大との試合が神宮球場で実施され1-3で敗れた。東京六大学野球秋季リーグ戦、法政大2回戦にも勝ち2連勝の瞬間(2017年10月8日撮影) しかしこの後、白星を挙げることが出来ず、2014年の春季リーグ戦で、自らが1987年から1990年にかけて作ったリーグワースト記録の70連敗を更新[7]。その間、2011年春季の東大3-3早大(9回に追いつかれ延長11回引き分け)、同年秋季の東大0-1法大(先発2年鈴木と法大三上朋也 (4年県立岐阜商出身) の投手戦で9回裏サヨナラ負け)、2012年秋季の東大5-5慶大(0-4の7回に5点を奪い逆転も8回に追いつかれ9回引き分け)、2013年秋季の東大2-5立大(9回裏に2点を挙げ追いつくも延長10回に勝ち越され65連敗)など惜しい試合もいくつかあった。
創部
歴史東大いよいよ野球リーグ加盟(『東京朝日新聞』 1925年3月4日付夕刊2面)