東京医学校
[Wikipedia|▼Menu]

東京医学校(とうきょういがっこう)「旧第一大学区医学校」は、明治時代初期、東京府に設立された官立の医学教育機関(医学校)で、当時のいわゆる「専門学校」(高等教育機関を意味し、専門学校令準拠の旧制専門学校とは異なる)の一つ。小石川植物園内に移築されたかつての東京医学校本館(現・総合研究博物館小石川分館)
概要

1868年5月(慶応4年4月)、明治政府が旧江戸幕府の医学所を接収したものを、「医学校」と改称し設立された。その後大学東校に改編され、1874年(明治7年)に東京医学校と改称された。

東京開成学校とともに1877年に発足した「(旧)東京大学」設立の母体となった。現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部の前身である。
沿革
「医学校」時代

文久1年1月(1861年11月)に設立された幕府直轄の西洋医学校「医学所」は、慶応4年4月(1868年5月)、明治新政府に接収されて6月26日新暦8月14日)には「医学校」と改称され、翌明治2年(1869年)1月にはイギリス公使館付医師のW・ウィリスを教師として授業を開始した。この医学校は翌2月には官立の「大病院」と統合されて「医学校兼病院」となるが、同年7月18日(新暦8月15日)の大学校設立に際し、開成学校(旧幕府の開成所の後身)とともにその管轄下に入り、大学校「分局」とされた。
「大学東校」時代詳細は「大学校 (1869年)#大学東校」を参照

明治2年12月17日1870年1月18日)、大学校の「大学」改称にともない医学校は「大学東校」と改称されたが、翌3年7月12日1870年8月8日)、内紛により大学本校が閉鎖され「大学」自体が有名無実化すると大学東校は独立、同年閏10月に学校規則が制定され予科・本科の組織が確立された。翌明治4年7月18日1871年9月2日)、大学の正式廃止と文部省発足にともない、7月21日(新暦9月5日)に「東校」と改称された。この時期は「医学校」設立当初のイギリス医学中心の教育からドイツ医学へと移り変わる時期に当たり(後出)、同年9月25日(新暦11月7日)、政府は東校をいったん閉鎖して規則を改正した上で翌10月に再開、こののちドイツの医科大学をモデルとした組織改革が進んだ。
「東京医学校」時代

明治5年(1872年)の学制頒布により、8月3日(新暦9月5日)、東校は「第一大学区医学校」となり、ついで1874年(明治7年)5月、東京医学校と改称された。この東京医学校は予科2年、本科5年からなり、主としてドイツ語を通じて西洋医学教育が行われたが、同年、日本語による薬剤師の簡易速成課程として修業年限2年の「製薬学(通学生)教場」、翌1875年には医師速成課程として修業年限3年の「医学通学生教場」が新設され、ともに日本語による授業が行われた。慶應義塾出身の印東玄得らが教授として着任した。1876年には初めて25名の卒業生を出し、翌1877年4月、東京医学校は東京開成学校(大学南校の後身)と統合され東京大学(旧)東京大学)の設立に至る。しかし設立当初の東京大学は旧開成学校および医学校の連合体としての性格が強く、しばらくの間、医学校の後身たる医学部では独自の「綜理」(大学総長に相当し池田謙斎が就任)を持つなど、高度な独立性を維持していた。
ドイツ医学への転換

明治初年、薩長を中心とする新政府は、蘭方医学からの転換という課題に際し、従来のイギリスとの親密な関係からイギリス医学の導入の方向に傾き、戊辰戦争中の医療活動に大きく貢献したイギリス公使館付き医官ウィリスとの間で1ヵ年医学校および「大病院」で医学教育・医療活動を行う契約を結んだ。当時のイギリス医学は臨床重視で、病院に基礎を置く医学であった。

このままで行くとウィリスはやがて設立されるべき東京大学医学部で中心的な役割を果たし、イギリス医学が日本の医学の主流になるはずであった。しかし新政府の医学取調掛に任命された相良知安岩佐純は大学に基礎を置き研究活動を重視するドイツ医学の採用を主張、佐藤尚中ら医学校(大学東校)・大病院の他の幹部もポンペボードウィンなどドイツ医学の影響下にあった長崎派の蘭方医学の流れの中に育ったためイギリス医学に格別の親近感を持っておらず、さらに大学南校教師フルベッキも「現在の医学の主流はドイツ医学である」と助言した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef