東京住友ツインビルディング
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東京住友ツインビルディング
西側より。左手が西館。右手の東館の裏は隅田川。
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施設情報
所在地104-0033
東京都中央区新川2丁目27番1、2号
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分26秒 東経139度47分4秒 / 北緯35.67389度 東経139.78444度 / 35.67389; 139.78444座標: 北緯35度40分26秒 東経139度47分4秒 / 北緯35.67389度 東経139.78444度 / 35.67389; 139.78444
状態完成
着工1985年9月
建設期間約2年半
竣工1988年2月
開業1988年3月
用途事務所
地上高
高さ99m[1]
各種諸元
階数地下3階・地上24階・塔屋1階(東館)
地下3階・地上21階・塔屋1階(西館)
敷地面積22,154 [3]
建築面積6,439.27 [3]
延床面積128,097.13 [3] ※東館69213.66m2
西館58883.47m2
構造形式鉄骨構造鉄骨鉄筋コンクリート構造鉄筋コンクリート構造
エレベーター数東館:乗用12基、人貨用2基
西館:乗用12基、人貨用3基
[2]
駐車台数東館:204台
西館:164台[2]
関連企業
設計日建設計
施工鹿島建設竹中工務店清水建設住友建設
デベロッパー住友倉庫住友海上火災保険
管理運営住倉建物サービス[4]
MS&ADビジネスサポート[5]
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東京住友ツインビルディング(とうきょうすみともツインビルディング)は、東京都中央区新川隅田川沿いに建つ高層オフィスビルである。
歴史
住友倉庫越前堀倉庫

1899年(明治32年)7月1日に、大阪にて住友家の金融業務の担保品保管から発足した住友倉庫[6]、1916年(大正5年)に住友銀行との間に、米穀商の山崎繁次郎商店[注釈 1]の内地米の代理保管契約を締結した。東京市深川区佐賀町(現 東京都江東区佐賀)に東京出張所を開設。山崎繁次郎商店の倉庫と在庫を引き継いで事業を開始した。こうして東京進出を果たした住友倉庫は保管量を伸ばし、1917年に深川区和倉町(現 江東区深川)に和倉町倉廩[注釈 2]、1918年には京橋区越前堀(現 中央区新川)の佐賀鍋島藩家臣の住宅跡地7769坪と建物69棟を取得。1919年1月に東京出張所を東京支店に昇格したうえ、同3月に佐賀町倉廩から越前堀倉廩に移した。同年10月に着工した、耐震・耐火構造鉄筋コンクリートブロック積5階建ての、当時の最新の倉庫建築は1921年8月に竣工し、東京における近代的倉庫の先駆けとして注目された。この倉庫は社内の呼称で「A/E倉庫(のちに500倉庫と呼ばれる)」と名付けられた[10]。1923年の関東大震災では和倉町倉廩・佐賀町倉廩と、A/E倉庫を除く越前堀倉廩の倉庫が罹災したが、A/E倉庫は耐震・耐火設計であったことに加えて従業員の尽力により[注釈 3]保管貨物は無傷であった。震災を伝える新聞号外は、A/E倉庫から緊急出庫された新聞用紙が使われた[11]。昭和に入り、1934年6月に「F/G倉庫」、1935年3月には「H倉庫(のちに300倉庫と呼ばれる)」(いずれも鉄骨鉄筋コンクリート構造2階建)が完成。順次収容力を増強した[10]
再開発計画

昭和40年代半ばになると、隅田川の架橋増加や地盤沈下により、越前堀の立地の優位性であったによる水運が見込めず、道路渋滞により物流拠点としての機能維持が困難になると予測されたこと、地価の上昇と倉庫業の競争激化により資産の収益性が相対的に低下傾向にあること、さらに大正時代に建てられた500号倉庫の耐久性から、越前堀倉庫の土地の倉庫以外への転用の構想が持ち上がる。1973年5月には事業の多様化を見込んで定款に「不動産の売買、賃貸及び管理業」を行えるよう改めた[12]

1972年11月に、中央区再開発審議会は定住人口増加を目指し隅田川沿いの地区を居住空間に転換する「大川端作戦」を発案[13]。1982年には東京都と中央区により、にあった石川島播磨重工業跡地に高層住宅などを建設、隅田川対岸の新川や箱崎地区には商業・文化施設を整備し職住近接の街づくりを行う「東京都大川端再開発構想」が発表された。この構想では八重洲通りの佃への延長も盛り込まれ、敷地が同計画道路に面することとなる[14]。これとは別に、同月に日本鉄道建設公団から越前堀倉庫の地下を成田新幹線のルートとし、予定線上の隅田川寄りに位置する300号倉庫を撤去して土砂搬出用の立坑としたい旨の申し入れがあった[13]。この地下の鉄道路線計画は京葉線に変更され、近隣に駅が開設されることとなった[14]

越前堀地区の倉庫機能の大田区平和島への移転を目指し、1977年3月に住友倉庫本店内に平和島の倉庫建設と越前堀の再開発のそれぞれの専門委員会を設置した。平和島には1970年より拠点を設けていたが、すでに多くの事業者が進出しており分譲残地はわずかであった。そうした中で食品会社の冷蔵加工場が閉鎖する話があり、住友信託銀行の斡旋で土地と建物を購入することができた[15]

社内では昭和50年代前半より越前堀倉庫の再開発の研究が重ねられ、シティホテルデータセンター、高層住宅、都市型物流施設などが検討されたが、東京駅から直線距離で1.5Kmほどに位置し、京葉線や八重洲通りの整備により通勤の便が向上すること、地域再開発との整合性からオフィスビルとすることが決定した[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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