東京ヤクルトスワローズ
Tokyo Yakult Swallows
会社名株式会社ヤクルト球団
創設1950年1月12日 (74年前) (1950-01-12)
今シーズン
2024年の東京ヤクルトスワローズ
ロゴデザイン
所属リーグ
セントラル・リーグ
歴代チーム名
国鉄スワローズ(1950年 - 1965年5月9日)
サンケイスワローズ(1965年5月10日 - 同年末)
サンケイアトムズ(1966年 - 1968年)
アトムズ(1969年)
ヤクルトアトムズ(1970年 - 1973年)
ヤクルトスワローズ(1974年 - 2005年)
東京ヤクルトスワローズ(2006年 - 現在)
本拠地
明治神宮野球場(東京都新宿区)
収容人員31,805人(明治神宮野球場)
東京都(1952年 - 現在)
永久欠番
なし
獲得タイトル
日本一(6回)
1978
1993
1995
1997
2001
2021
リーグ優勝(9回)
1978
1992
1993
1995
1997
2001
2015
2021
2022
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(2回)
(2015年から2018年までは最高勝率)
2018
2022
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(9回)
(太字は勝利した年)
6勝3敗
1978
1992
1993
1995
1997
2001
2015
2021
2022
クライマックスシリーズ出場(7回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
3勝4敗
2009
2011
2012
2015
2018
2021
2022
球団組織
オーナー成田裕(オーナー代行:衣笠剛)
運営母体ヤクルト本社
球団社長林田哲哉
GM小川淳司
監督津臣吾
選手会長清水昇
キャプテン山田哲人
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株式会社ヤクルト球団
Tokyo Yakult Swallows種類株式会社
本社所在地107-0061
東京都港区北青山二丁目12番28号 青山ビル4階
設立1950年1月12日
(株式会社国鉄球団として)
業種サービス業
法人番号8010401029745
事業内容プロ野球興行
代表者林田哲哉(代表取締役社長)
衣笠剛(代表取締役会長兼オーナー代行)
資本金4億9500万円
純利益2億8927万9000円
(2023年12月期)[1]
総資産55億6133万6000円
(2023年12月期)[1]
決算期12月末
主要株主株式会社ヤクルト本社 80%
株式会社フジ・メディア・ホールディングス 20%
関係する人物松園直已、松園尚巳、相馬和夫
外部リンクhttps://www.yakult-swallows.co.jp
特記事項:旧商号・株式会社国鉄球団→株式会社サンケイアトムズ→株式会社アトムズ→株式会社ヤクルトアトムズ
1973年10月26日に現商号へ改称。
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東京ヤクルトスワローズ
YouTube
チャンネル
東京ヤクルトスワローズ
活動期間2015年2月1日 -
ジャンル野球
登録者数21.7万人
総再生回数7632万1210回
YouTube Creator Awards
登録者100,000人2022
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-10-25-00002023年10月25日時点。
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東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、英語: Tokyo Yakult Swallows)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。
東京都を保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場を使用している。
1950年のリーグ分裂時に日本国有鉄道にちなんで国鉄スワローズとして発足され、その後親会社が産経新聞社→ヤクルトと変遷した。一時期はアトムズの呼称を使用していたが、のちに発足当初のスワローズに戻っている。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
球団の歴史
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出典検索?: "東京ヤクルトスワローズ"
1949年(昭和24年)オフにリーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立のあおりを受け、各地の国鉄鉄道管理局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。同年の秋、当時の国鉄総裁加賀山之雄が「国鉄の新事態に即応して、身近なプロ球団を結成するということは、どんなものだろうか」という発言を行った。新事態とは国鉄がこの年に公共企業体として発足したことを指す。また、未曾有の人員整理や下山・三鷹・松川といった事件(国鉄三大ミステリー事件)も相次いで起こっていた。この暗い雰囲気を払拭して職員の士気を昂め、明るい職場づくりのためにスポーツ、特に人気の高い野球に取り組もうとしたものである[2]。加賀山が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。
交通協力会理事長の今泉秀夫(後に球団の専務取締役に就任)の草案による国鉄プロ野球団の「設置の効用」は(1)国民大衆と国鉄の結びつきを緊密、かつ和やかなものにする(2)野球を通じて国鉄職員の一本化を増進し相互の密着感を強化する(3)健全な精神、身体を持つ職員を養成する(4)国鉄部内のノンプロ野球の発展を刺激する。[3]であった。
しかし、運輸業とその関連事業以外の副業を禁じた日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会(現:公益財団法人交通協力会・株式会社交通新聞社)が主体となり、1950年(昭和25年)1月12日に財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現:公益財団法人日本交通公社・株式会社JTB)などの企業により株式会社国鉄球団[4](資料によっては国鉄野球株式会社となっている物もあり)[5] を設立。なお、交通協力会が発行する鉄道業界紙である「交通新聞」では、1950年(昭和25年)1月12日に交通協力会理事長の今泉秀夫がセントラル・リーグに加入申込みを行った[6]ものとされ、同じく交通協力会が発行する「交通年鑑」の「昭和25年交通年譜」では「5月18日 株式会社国鉄球団成立す[7]」とされている。球団名を国鉄スワローズ(こくてつスワローズ、Kokutetsu Swallows)とし(#球団名も参照のこと)、セントラル・リーグに加盟。初代監督には西垣徳雄が就任。
国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元逓信省総裁松前重義の尽力で、武蔵境の旧中島飛行機工場跡地に新しい野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が建設された(諸事情により1956年〈昭和31年〉閉鎖。7試合しか行われなかった)。
しかし、参入が他新球団より遅れていたため、選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのノンプロ・アマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は第二次世界大戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、松竹ロビンスの二軍監督・森谷良平と、かつて奉天満鉄倶楽部に在籍していた宇佐美一夫を追加補強してクリーンアップに据えたものの、その後も貧打に悩まされた。
国鉄時代
1950年[8]
3月10日の球団初公式戦の対大洋ホエールズ戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対広島カープ戦に3対2で球団初勝利を挙げる。