東京ビートルズ
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東京ビートルズ
出身地
日本
ジャンルコピーバンド
活動期間1964年 - 1967年
レーベルビクターエンタテインメント
(旧日本ビクター傘下)
事務所木倉プロダクション

メンバージョージ岡
市川次郎
斉藤タカシ
須藤マコト
飯山シゲル

東京ビートルズ(とうきょうビートルズ、THE TOKYO BEATLES[1])は、日本ロックバンド歌手グループである。

1964年(昭和39年)、当時世界を席巻し始めたばかりのビートルズの楽曲に日本語歌詞をつけ活動した日本で最初期のロックコピーバンドである。もっとも東京ビートルズ名義2枚のシングル(計4曲)の演奏はスタジオミュージシャンによるもので、メンバーが担当したのはヴォーカルのみである。活動期間が短いことや音楽的な質が低いとされ、ヒット曲に恵まれなかったことなどから長く忘れられていた存在であったが、1990年代に大滝詠一や高田文夫らによりカルト音楽として再評価された。
メンバー
メインメンバー


ジョージ岡(
1943年 - )、ボーカルリードギター

本名は岡昌明[2]。1965年秋にバンドを脱退[2]、米軍基地回りのバンドに加入するも2年で解散[3]。その後はギターの弾き語りをしていたが1988年に左手の腱鞘炎で廃業し、以後はアルバイト生活をしていた(1994年時点)[3]


市川次郎(1944年 - )、ボーカル、ベース

斉藤タカシ(1945年 - )、ボーカル

本名は斎藤峻[4]。解散後、歌手のマネージャーを経て、1994年時点では音楽事務所を経営していた[4]


須藤マコト(1946年 - )、ボーカル

飯山シゲル(1947年 - )、ボーカル、ドラム

サポートメンバー


田村一郎、エレキギター

楠本光三、ベース

加瀬沢道雄、ドラム

後期加入メンバー


東祐治、ベース

上重とおる、パーカッション

杉村ヒロシ、ボーカル

結成の経緯エルヴィス・プレスリー1957年

太平洋戦争終結後の日本のポピュラー音楽は、戦時中に敵性音楽として禁止されていた反動からジャズブームが起こり、日本ポップスの父と呼ばれた服部良一作曲によるスウィング・ジャズから派生した東京ブギウギなど、ジャズ由来の楽曲が一世を風靡した。また占領期の日本ではプロ、アマ問わず進駐軍の基地回りにおけるジャムセッションなども頻繁に行われ、戦後しばらくの期間は多くの日本人ジャスプレーヤーが育っていった時代でもあった。1964年2月、アメリカ初訪問時のビートルズ

やがてジャズブームが下火になると三橋美智也春日八郎などの日本的音楽が台頭する一方、ジャズとハワイアンを融合させたフランク永井など日本独自のポピュラー音楽が形成されていった。そんな中、戦後も10年を過ぎた1956年(昭和31年)、突如としてアメリカエルヴィス・プレスリーが登場し、日本においてもジャズからロカビリーへと若者の音楽趣向が変化していったが、当時の日本のポピュラー音楽界では、歌い手と演奏者(若しくは歌い手と楽曲作成者)は別個のものという概念があり、発声音程が重視されることから楽譜による模倣が可能だったクラシックやジャズのプレイヤーに、情熱や迫力といったウェイトが大きい従来の音楽とは異なるロック音楽を模倣することは困難であった[5]

やがてロックの基盤を作れないまま60年代を迎えていた1964年(昭和39年)2月の始め、イギリスリヴァプール出身の4人組グループ、すなわちビートルズがアメリカのビルボードチャートを独占し始めたというセンセーショナルなニュースが日本ポピュラー界にも入り、これに便乗しようと雪村いづみの事務所である「木倉プロ」が若手歌手を集めて急遽、東京ビートルズが結成された。

ビルボードチャート独占ニュースからわずか1ヵ月後の1964年3月初旬のことであった[6]
活動期間ウェスタンカーニバルが行われた日本劇場(写真は1952年)

前述した3月初旬のメンバー結成後、プロダクションにより約2週間の練習が行われ、3月15日から横須賀市にあるキャバレー「グランド・オスカー」に出演し修行を重ね、日本ビクターからレコードデビューすることが決まり、4月3日には築地にあるビクタースタジオでデビューシングルであるビートルズの日本語カバー「抱きしめたい」と「プリーズ・プリーズ・ミー」の2曲がレコーディングされ、4月下旬に発売された。

4月8日には上野にあるジャズ喫茶「テネシー」での様子がNET木島則夫モーニングショー』にて放映されテレビ初出演を果たす。翌4月9日深夜には横浜伊勢佐木町にある「トリス・クラブ」に出演し、この時の様子がアサヒ芸能(64年4月19日号)にレポートされているが、その内容から客層はホステスなどの水商売系で占められていたことが伝えられている。7月には第2弾シングルとして、再びビートルズの日本語カバー「キャント・バイ・ミー・ラブ」と「ツイスト・アンド・シャウト」のカップリングが発売されたが、結果的にこれが彼らの最後のシングル盤となった。そして8月には日劇ウエスタンカーニバルへの初出演を飾ることとなるが、音楽評論家からは酷評されてしまい、追い討ちをかけるように翌1965年(昭和40年)にはベンチャーズ来日公演をきっかけとするエレキブームが起こり、東京ビートルズの人気は急速に衰えて、メンバーの須藤が脱退、代わりにサポートメンバーの田村と加瀬沢がメンバーに加入し、ジャズ喫茶や米軍キャンプ等での地味な活動が中心となっていった。

それでも65年春にはビクターにより発売されたソノシート『ビートルズ特集16曲』で前出したシングル4曲に加え新たに録音されたカンサス・シティの計5曲が収録され、8月には同様にビクターによるソノシート『リヴァプール・サウンド特集』が発売され、ビートルズナンバーを含む8曲が収録されたが、この8曲は従来のカバーと異なり、全て原曲通り英語で歌われており、演奏もメンバー自身によるものであった。この頃オリジナルメンバーの市川に代わり東祐治、さらにボーカルとして杉村ヒロシが加わり6人での編成となっていた。12月にポリドールから発売されたエレキギターによるインストロメンタルオムニバスアルバム『エレクトリック・ギター・ベスト・ヒット65』では2曲で参加をしているが、これが彼らの残した最後の公式録音であった。ステージレパートリーではオリジナル曲なども演奏され、彼等なりのオリジナリティーを模索していたが、その矢先の1966年(昭和41年)ブルー・コメッツスパイダースなど一大グループサウンドブームが日本中に巻き起こり、東京ビートルズはすっかり忘れられた存在となってしまい、営業バンドとして活動を続けてはいたものの1967年(昭和42年)の春頃に解散した[7]

後日談として、ギタリスト野村義男が友人のバンドメンバーの体験談として、東京都内某所のスタジオで、警備員としてスタジオで働いていた年配男性が、おもむろにスタジオに入るなり、突然ドラムを叩きだしたので、驚いた友人が年配警備員に「音楽をされているんですか?」と尋ねると「俺は昔、東京ビートルズというバンドをやっていた」と答えたという逸話が語られているが、真偽の程は分からず、その警備員がメンバーの誰なのかも明らかにされていない[8]
再発売

東京ビートルズの音源を所有する日本ビクター(現ビクターエンタテインメント)では、1980年代後期から1990年代始め頃、トニー谷橋幸夫などのリマスター盤CD再発を始めていたが、これらの企画に携わっていたのが大滝詠一であった。


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